2013年8月、大リーグ野球のニューヨーク・ヤンキースに所属するイチローが、日米通算4千本安打を達成した。すばらしい記録である。この私たちに長年にわたって感動を与えるイチローは、大リーグでも有数のすぐれたプレイヤー、選手として、いまも活躍し続けている。
いま私は、「イチローがすぐれたプレイヤー、選手である」と記述した。イチローのことを何気なく私たちはこう言っている。しかし、この「プレイヤー・選手」という言葉には普通に考える以上の意義が込められるのではないか、と私は考えたい。「プレイヤー・選手」という人間の在り様を示す言葉にこだわってみたい。
会社は「プレイヤー・選手」の集まる組織である。社長も「プレイヤー・選手」である。マネジメントをする部長、課長も「プレイヤー・選手」である。下位の一般の会社員も「プレイヤー・選手」である。そのように私は考えてみた。ここでは社長が部長や課長や従業員を「管理する」とか、部長や課長などの上司が、部下を「管理する」という考え方は一次的には入ってこない。地位に関係なく全ての所属員は、それぞれに、そして一律に、「プレイヤー・選手」なのである。
イチローがすぐれているのは、あくまでも「プレイヤー・選手」としてなのである。管理者としての監督やコーチとしてすぐれているわけではない。将来的に監督やコーチになるかもしれないし、ならないかもしれない。仮に監督やコーチになっても、すぐれた監督やコーチになるかは不明であり、別問題だ。あくまでもイチローは、「プレイヤー・選手」として我々を魅了する。
会社においても同じように考える、ということを、私はここで提案したい。全ての所属員は「プレイヤー・選手」なのだと考えてみたい。そして、そうした在り様の個人が集まるのが、会社という組織である。全ての個人、全ての「プレイヤー・選手」が快適に、そして十全に働くことのできる職場を作りたい。そんなふうに考えたいのである。
現在のもう一つの事例として、マラソン大会に参加する人々が非常に多いことに注目しよう。各地で頻繁に行われるマラソン大会に、なぜこれほど多くの人々が参加するのか。
この場合のスポーツ競技としてのマラソンは、あくまでも個人競技である。すなわち個人の能力を、「プレイヤー・選手」として競うのがマラソンである。しかも同条件で、公平な基準で競うのである。その基本的なことに、非常に多くの人が参加している理由があるのだ。そしてマラソンという競技の魅力があるのだ。
人々は、マラソンというスポーツ競技に対し、「プレイヤー・選手」としての自らの人生や会社での就業を、精神的にアナライズしているのではないか。そのように、私には思えるのである。
]]>広住さんへの手紙
希望の塾のご報告、ありがとうございました。お疲れ様でした。入塾されて初回の塾はいかがでしたか。
小池さんをはじめ、現代で支持される人物、特に支持される政治家は、嫌いな言葉という人がいるかもしれませんが、どこかで「利他性」をもっていると思います。「都民ファースト」とか、「アスリート・ファースト」とか、小池さんの言葉には、政治家には珍しく、「利他性」の要素が感じられます。
そういう意味では、小池さんは、多くの政治家がそうであるように、「利己的」な勝負師ではありません。「利他的」な要素を持った勝負師だからこそ、これほど支持されるのだと思います。
政治家・小池さんの、都知事選挙とそれに続く都知事としての一連の振る舞いを見てきて、僕を含めて我々国民が、いかに政治家の「利他性」を渇望してきたかがわかります。この場合の「利他性」とは、我々国民のための政治、我々国民のことを思いやってくれる政治家、ということです。戦後の政治や政治家を見てきて、そういう意味の「利他性」、そういう意味の「国民を思いやる姿勢」が、まったくと言っていいほどに感じられませんでした。自分の出世だけを考えるような、日本という国のGDPが高まることだけを求めるような、「利己性」が蔓延していました。小池さんの都知事としての登場は、政治や政治家のあり方に、明らかに一石を投じています。そして僕自身も、多くの国民も、小池さんの登場を支持し、小池さんに期待しています。
小池さんは、国民のことを考えていると我々国民に感じさせ、国民を思いやる政治家であると感じます。そういう意味で、「利他性」の要素をもった政治家です。ちょっとほめすぎかなとは思いつつ、そんなことを広住さんのご報告を読みながら、感じました。
]]>しかも『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』の書籍に依存している部分が多い。いかに良書だと感じたとしても、著者として無責任だとの批判は免れないだろう。
その原因は、もちろん私の力不足にある。また「私の職場論」と断っているように、日本の状況から言って、必ずしも客観性のあるものではないも思う。しかし、私が実現したいと思う「人間中心の職場作り」を実践している会社は稀であり、逆にパワハラが横行する人間不在の職場のほうが多いという現実がある。そのことが、結論・成果としてのこの第4章の記述を難しくした一方の原因である。
「人間中心の職場作り」というのは、私が現在の65歳になるまで、いくつかの職場で働いてきたうえでの実現目標である。そんな職場で働きたいという夢である。また、そんな職場が少しでも増えてほしいという希望である。
結論・成果として説得力を保持していないかもしれないこの第4章だが、私自身は、今後も常にこのテーマを考え続けていきたいと思う。努力を傾注していきたいと思う。読者の皆さんも、ある人は会社員として職場で働きながら、ある人は経営者や管理者として職場を運営しながら、この実現に力を発揮してもらいたい。
「人間中心の職場作り」が、今日的な大きなテーマであることは間違いない。その実現のために考え続けることをお約束して、私の拙文としてのこの記述を、いったん完了したい。最後までお読みいただき、ありがとうございました。(了)
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私は、この文章の2章で、職場というのは一種の「戦場」であると述べた。大変、過酷な場であるのが、戦闘行為の行われる戦場であり、そこでは人間性を確保することが非常に困難である。そこでは多くの個人(兵士)が人間性を失った行為・行動に走ってしまう。そのことは、自分の生命に、生死に関わる戦場だから当然なのかもしれない。しかし、そういう過酷な戦場でも、人間性を失わず、他者への配慮を欠かさない個人(兵士)はいるのである。私たちは、戦争を扱った小説などで、そういう人間としての尊厳を失わない個人(兵士)がいることを知っている。
職場が「戦場」に準えられるとすると、職場にいる個人(社員)にも同じことが言える。職場においても人間としての尊厳、良質な人間性を失わない、他者への配慮に行き届いた個人(社員)は、存在し得ると思うのだ。お互いに気持ち良く働けるように、個人(社員)はあり得る、存在し得ると思うのだ。私たちは、誰でもがそういう可能性を内包した個人(社員)であり、それ故に私は、職場における個人(社員)について、性善説を採用したいのだ。
私を含めた個人にとって、この人間としての道は決して簡易なものではないだろう。そこには人間としての鍛錬や努力が必要だろう。私はそういう個人になることの難しさを感じる一人であるが、これからの人生でそういう人間を目指して努力していきたいと思う。そして職場で働いていると、そういう貴重な人間性を保持した個人(社員)、人間としての尊厳を備えた個人(社員)に出会うことができるのだ。そういう人間になるために、私もまた、鍛錬し、努力したいと思う。
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そこまでいかなくても、会社で働く人間は、仕事の成績はどうあれ、職業人としての存在が認められていないと、やる気を失い、一生懸命仕事をしようとしなくなる。(P267「第11章モラル・ハラスメントが行われやすい環境」「働く人間として自分の仕事や存在を認めてもらえない」)
この引用文には、社員のモチベーションを高め、気持ちよく働くために重要なことが書かれている。まず、私たちにとって職場で働くこと、すなわち仕事とは自分のアイデンティティを作る重要な要素である。そのくらい、自己に占める仕事の比重は大きいのである。そのため、その仕事を認めてもらえないと、自分の存在そのものが否定されるような気持ちになってしまう。これでは、モチベーションは高まらない。逆に仕事を認めてもらい、評価してもらえばモチベーションは高まることになる。そういう職場では、パワハラがなくなり、業績も上がる可能性が高いとも思う。部下の仕事を認めてやれる管理者なり、組織の理念、組織の文化が待たれている。
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このように人間を道具と見なすやり方は、上司と部下の関係のなかでもよく見られる。そこでは、対等な人間同士の関係という側面が薄れてきていて、上司が部下のことを人間ではなく、仕事に必要なモノのように考えるのだ。相手がモノであれば、「ありがとう」と言う必要もなければ、「よくやった」と言う必要もない。また、注意を払う必要もない。部下はただ、役に立つかどうかだけで判断されるのである。(P268「第11章モラル・ハラスメントが行われやすい環境」「働く人間として自分の仕事や存在を認めてもらえない」)
しかし、収益をあげるということと、社員を人間として尊重するということは、それほど矛盾することだろうか? いや、そんなことはあるまい。むしろ、この二つは密接に結びついているとさえ言える。実際、複数の会社を対象にアメリカで行われた研究によると、単に労働環境を整えるという以上に、会社が社員の状態に注意を払うようにすると、会社の業績は伸びるという結果が出ている。(P271〜272「第11章モラル・ハラスメントが行われやすい環境」「働く人間として自分の仕事や存在を認めてもらえない」)
「人間性を認める」とは、言うはやさしいが、実際これほど難しいことはない。そのことが、この文章全体のテーマとさえなっているのだ。ただ、その一つの理解として、単なる労働力とは違う、機械のような労働力とは違う、あくまでも人間である、ということだろう。
私たちは多くの場合、労働の対価として金銭を稼ぎ、生活を成立させている。だから、私たちは自分の労働を機械のように考えがちだ。生産性本位の管理はそういう考え方から派生するのだろう。
私たちは機械であるわけではもとよりなく、あくまでも人間である。感情を持った人間である。確かに職場では労働によって対価を稼いでいるが、あくまでも人間である。そのため、感情とか心理を無視された場合、労働のモチベーションは下がってしまう。逆に、人間として配慮の行き届いた管理(マネジメント)がされれば、モチベーションは上がる。その結果、生産性が上がり、業績も上がるはずだ。安易に社員を労働力として、機械のように管理することは避けなければならない。
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一般的に、組織の管理原則として「責任と権限の一致」というものがある。そしてパワハラ行為が顕著になるのは、この原則が守られなかったときではないだろうか。すなわち、権限ばかりを振りかざし、責任を取ろうとしない行為自体が、パワハラだと言って良い。その結果、社内の秩序が維持できなくなり、さらに過酷なパワハラ行為が横行することになってしまう。
たとえば、部下が退社したとする。その部下は、権限を振りかざす上司に不満があったと思われる。そういうとき、部下に対して業務の指示などの権限を振りかざしていたのであるから、その部下が退職したことに大いなる責任があるはずである。ところが、いま多くの会社の管理者は、その責任を取ろうとしない。
この引用文では、ピラミッド型組織ならまだしも、ネットワーク型組織になって、さらに責任を取ろうとしない管理者が多くなったと述べられている。確かに、ネットワーク型組織において責任があいまいになったことは事実だと見られる。しかし、ピラミッド型組織においても責任を取ろうとしない管理者は増えているのであり、制度として管理者の責任を明確にすることが必要だと考えられる。そういう管理者が、「人間中心の職場作り」には必要不可欠ではないだろうか。
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この引用文でわかることは、ちょっとした仕事上の対立や感情の行きちがいなどによって、パワハラ行為が横行するようになってしまうということである。つまりちょっとして人間関係のあつれきが、パワハラ行為を誘発してしまうのである。その結果、くり返しになるが、社員のモチベーションを下げ、生産性をも下げてしまうのである。
職場で働く社員への、どのアンケート調査を見ても、職場で働きたくない、退社したいと思う理由は、「人間関係が悪い」というものである。多くの職場で働く社員が、「人間関係」で苦しんでいる。その背後にパワハラ行為が隠れていることも多いだろう。それほどに職場の人間関係を良好なものに維持することは難しい。
次項では、人間関係を良好なものに維持するにはどうすべきかを考えてみたい。人間関係の改善は非常に難しいことだが、その問題を避けては、「人間中心の職場作り」を達成することはできない。職場における最大の問題が人間関係にあるのだ。
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パワハラが横行する職場では、社員のモチベーションは下がってしまう。そこでは職場の関係性、すなわち上司と部下の関係、社員同士の人間関係が悪い。そしてそれらの関係性が悪いということは、社員が働く職場環境が悪いということである。社員のモチベーションが下がるのだ。その結果、職場の生産性も下がってしまう。逆に、パワハラのない職場においては、職場の関係性は良好であり、社員のモチベーションは上がる。
「パワハラのない職場」と「人間中心の職場作り」とは、その考え方において、多くの面で重なり合うのである。そこで、もう少し『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』の著作から引用しながら、「人間中心の職場作り」を考えていくことにしよう。
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加害者から離れることは、被害からの脱出として有効である。比較的大きな企業の場合、配置転換してもらうように会社に申し出ることが必要だろう。企業としては、その配置転換を認める器量の大きさが必要だというのが、ここで強調したいことである。配置転換ができない小さな組織の場合でも、直接の上司を代えるなど、加害者と被害者との距離を持つようにするのが被害からの脱出として有効である。その場合も、会社は、パワハラということが職場ではあり得るということ、そのことを十分に認識し、回避する方策を採用したいものである。
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では、ここで被害者の立場にたって、「私はモラル・ハラスメントを受けている」と思ったら、いったいその時はどうすればよいのだろう? そこで、まず第一に言えることは、モラル・ハラスメントの状況からは、ひとりでは抜け出せない、ということである。したがって、自分が被害を受けていると感じたら、ともかく誰か専門家に相談しなければならない。というのも、もしそういったことをしないのであれば、あとは直接、法に訴えるしか方法がなくなるからである。
しかし、そうは言っても、どんな専門家に相談するのか、これを決めるのがまた難しい。医師か、弁護士か、労働組合か・・・。その人が受けている被害の状況によって、誰に相談をすればいいのかも、また変わってくるからである。だが、いずれにしろ、その人の状況にふさわしい専門家が見つかれば、その専門家は、話を聞き、一緒に状況を分析し、はたしてそれがモラル・ハラスメントであるのかどうか、またどんな種類のモラル・ハラスメントであるのか、そういった判断を下してくれるだろう。(P396〜397「第5部 モラル・ハラスメントにどう対処すればよいか」)
この章の前半にも書いたことだが、パワハラ行為から逃れるためには、第三者としての専門家に相談することが大切である。自分一人で解決することはまずできない、と考えるべきである。では、どのような専門家に相談したらよいのだろうか。それがまた難しいと引用文に書かれている。ただ、自分一人で考え込み、落ち込んでいるだけで解決できるということはあり得ない。だから、勇気を出して、良い相談相手と見られる専門家に相談することが大切である。それが解決の第一歩だと考えるべきである。
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心理的な攻撃について考える時、「悪意」の問題を切り離して考えるわけにはいかない。というのも、その攻撃に悪意があれば、被害者が受ける心の痛手はいっそう深くなるからである。被害者が傷つくのは、相手の「悪意」に対してなのである。「あの人は私を傷つけようとしている!」そのことに傷つくのだ。(P87「第2章モラル・ハラスメントであるもの」「悪意があるということ」)
この引用文で強調されているのは、パワハラを受けた被害者は、当初、その悪意が信じられないということである。そもそも、正直で良識を持った人は、他者に対して悪意を持っているということが信じられない。信じられないのに、一方で悪意を感じるのである。また、そういう悪意を持って対応されることは、自分が悪いのではないか、と考え込んでしまう。そんなことはないのだが、自分が信じられなくなるということのようだ。
被害者は加害者の悪意に傷つく。「あの人は私を傷つけようとしている!」。その悪意を発する人が信じられずに、その悪意に傷つくのである
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パワハラ行為を受けた被害者は、加害者が悪意に満ちたパワハラ行為を認め、謝罪するまで、自問自答することになる。パワハラ行為を受け、自分が間違っているのではないか、自分がおかしいのではないか、と考え始めるのである。そのうえ、加害者は自分の悪意あるパワハラ行為を認めようとしない。そのことがさらに被害者を追い込み、時には狂気に至らしめることさえあるのだ。
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一度だけのささいな嫌がらせだけならば、被害者は傷つくことはない。しかし、それが何度も繰り返されると、その都度、傷つき方は増量してくる。しかも多くの場合、加害者は多くの場合、より大きい嫌がらせをするようになる。その場合、最初は「失礼だな」くらいの思いだったものが、繰り返されるたびにより大きな嫌がらせに感じるようになる。そして被害者は、最終的には精神のバランスを失うくらい傷つくのでる。これが悪意ある嫌がらせとしての、パワハラ行為の実相である。
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パワハラ被害について考える場合、その被害が主観的なものだということは十分に考えておくことが必要だ。同じ職場の人間や、第三者にはなかなか見えないのに、当人は主観的に大きな被害意識を持っていることも珍しくない。第三者から見て何事もないようなパワハラ行為が、被害者にとっては大きな痛手となることもある。本人以外に見えないというのは、加害者の狙いでもある。被害者の被害意識は、主観的に認識されるので、個人差があるとも言える。そのことが解決を難しくしていると言えそうだ。
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仕事というのはアイデンティティと密接に結びついていることが多い。仕事に関係することで褒められ、評価され、好感を持たれれば、自己イメージはよくなる。反対に、批判され、貶(おとし)められれば、自分とは何か疑うようになる。
(中略)実際、最初に言ったように仕事とアイデンティティが密接に結びついている場合――というより、過度に結びついている場合は、仕事の批判を仕事だけの問題として考えることができない。(中略)仕事とアイデンティティが切り離せなくなっているので、仕事の批判をされただけで、全人格的に傷ついてしまうのである。(P313〜314「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「アイデンティティが仕事と過度に結びついている場合」)
モラル・ハラスメントはほんの小さなことから始まるが、職場の人々の間の価値観のちがいがそのきっかけとなることも多い。たとえば、倫理的に潔癖で、職場で行われる「公私混同」を許せない人がいた場合、そういった人はモラル・ハラスメントの標的にされやすくなる。(P320「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「生真面目で正直すぎる場合」)
自分の仕事を大切にし、神聖化している人の場合も、モラル・ハラスメントを受けやすい。こういった人々は、仕事には特別な価値があると思っているので、つい融通がきかなくなるからである。(P321「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「仕事を大切にし、神聖化している場合」)
私たちは、仕事を特別な行為として捉えがちである。というのも、仕事によって金銭を稼ぎ、生活を成立しているわけだから、当然の認識かもしれない。ところがこうした特別な行為として認識することが、パワハラ被害を受けやすくしている、と指摘されている。また、詳しく後述するが、仕事についての自己評価が低い、ある意味では謙虚な性格というのも、パワハラ被害を大きくする傾向があるようだ。これも一般的には悪いことではなく、評価されるべきことかもしれない。しかし、被害を受けやすい仕事への姿勢として考えておく必要がある。
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ここではパワハラ被害を受けやすい性格として「不器用な性格」があげられている。ここで言われる「不器用さ」とは、「集団の中でうまく要領よく立ち回れない」ということのようだ。世渡りが不器用な性格ということになる。「社会に適応できない人」ということになるが、私が思うに、「器用な人」「世渡り上手な人」よりも正しい価値観、批判精神を持った人だと思う。ここでも一般的には評価できる性格であるにも関わらず、パワハラ被害を受けやすい性格と指摘されている。
]]>
敏感性格とはドイツの精神医学者、クレッチマーの命名によるものだが、このタイプの性格の人々は、良心の葛藤に悩みやすく、他人の反応を気にしやすい。また、社会や人との接触に過敏な反応を示し、生命を脅かされる不安を感じやすい。そうして、自分自身に対してはかなり悪いイメージを持っている・・・。と、並べてみると、かなり弱点の多い性格であるが、これはもちろん精神病ではない。あくまでも性格である(そのことはきちんと言っておきたい)。
そのほかにも、この性格の特徴をいくつか言うと、論理に欠けることを許さない。いい加減なことを嫌う(特に対人関係でいい加減なことができない)。何ごともおろそかにできない。噂や人の評判が気になる、といったことが挙げられる。
また、普通の人よりも屈辱感を持ちやすく、人から攻撃を受けると、その出来事を気に病むあまり、苦痛のあまりうつ病や抑うつ神経症になったり、場合によっては妄想を抱くこともある。
といったことから、この性格の人々はモラル・ハラスメントにあいやすいだけでなく、モラル・ハラスメントに対して過敏に反応する。実際、モラル・ハラスメントを受けると、敏感性格の人々は、代償機能が破綻し、精神病に追い込まれることも多い。(P323〜324「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「敏感性格の場合」)
被害を受けやすい性格の第一は、「敏感性格」である。対人関係に過敏な性格というのは、対人関係において配慮ができ、優しく接することができるという面がある。一般的には優れた性格として評価されるものだろう。しかし、パワハラ被害を受けるという意味では、そうした優れた性格が危険であると見られる。思いやりが裏目に出るのが、パワハラ被害なのである。これは危険な考え方であるかもしれないが、職場のパワハラ被害に限って言えば、このことが言えると同書では指摘されている。
]]> ここで言う「変質の伝達者」とは、いくらおかしなものであっても、上層部の意志をそのまま実行に移そうとして、人を傷つけてしまう人々のことである。たとえば、会社のある部署が上層部から実現困難な目標を与えられた時、その部署の人々は、その目標を達成するために、自分たちのなかで成績の悪い人たちを排除することがあり得る。命令を実行するためであれば、同僚を傷つけることなどなんとも思わなくなってしまうのだ。
もしそうなら、ある社員を辞めさせようと思った場合も、会社の上層部はその社員が会社にとって望ましくない存在だということを同僚の社員たちに知らせてやればよい。そうすると、同僚の社員たちは、権威に対する恐怖や服従の心理から、その社員を仲間はずれにして、孤立させる――すなわち、これまでさんざん述べてきたやり方で、モラル・ハラスメントを行う。その結果、その社員はいわば同僚たちから追いだされる形で、会社を辞めていくことになるのである。
ある組織のなかで、自分が信頼を置いている「権威」から命令を受けた時、人はその命令を実行することに関しては責任を感じて、自ら進んでその行為をなしとげる。だが、その行為を行うこと、あるいは、その行為の結果については、まったく責任を感じない。自分はただ、「命令されたからや
った」と考えるのである。(P378〜379「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「変質の伝達者」)
職場においては誰もがパワハラの被害者になる可能性がある。その一方で、パワハラの加害者になる可能性も誰もが持っている。そうした可能性を肯定しなければ、パワハラを理解することも、パワハラを回避することもできないだろう。
その要因の一つが、職場という、組織、集団の中でパワハラ行為がなされるというところにある。この場合、上司一人のパワハラ行為であっても、組織、集団の中でその行為が加速されることがある。この場合のパワハラ行為とは、組織、集団によるいじめとしてとらえる必要があるかもしれない。発端は上司一人の行為であっても、それが組織、集団の中で悪い意味で伝播してしまうのである。パワハラ行為について考える場合、そういう組織心理、集団心理を無視することはできない。
他人に恐怖を覚えると、まわりの人全員を警戒しなければならなくなる。他人に利用されないよう、弱点を隠す必要も出てくる。もし誰かを潜在的な敵で、危険なライバルだと考えるならば、やられる前にやってしまわなければならない・・・。前著で述べた「自己愛的な変質者」はとりわけ他人に対する恐怖が大きい。このような人々にとっては、自分に服従しない人、自分の魅力に屈しない人はそれだけで危険なのである。
恐怖を抱くと、他人は悪魔のように思える。自分は弱く、脅かされていると感じるので、相手が攻撃的に見えるのだ。そういった気持ちから、実際には脅かされていないのに、相手に対してモラ
ル・ハラスメントを行う場合がある。(P63「第1章職場におけるモラル・ハラスメント」「恐怖」)
加害者がパワハラ行為に走る動機、心理の一つに「恐怖」にかられるということがある。つまり職場の他者からパワハラ行為を受けるのではないか、自分が支配されるのではないか、迫害されるのではないか、という「恐怖」が加害者になってしまう心理的要因になるのだ。他者から迫害される前に、自分が他者を迫害しようとするのである。そこに「恐怖」という心理が介在するのだ。
また、加害者がまだ新人のころ、組織の上司や幹部からパワハラ行為を受けていた場合、自分が同じような立場になると部下に対してパワハラ行為をすることがある。そういう世代間の連鎖ということも、パワハラ行為に及ぶ要因・動機があると考えられる。
ところで、モラル・ハラスメントとの関係で、この「自己愛的な変質者」の行為を考えると、この人々は自分のしたことを悪いと思っているのだろうか? さまざまな機会に本人たちに訊いてみると、本人たちは一様に否定する。彼らは絶対に自分たちの過ちを認めない。したがって、謝罪もしない。彼らが後悔するとしたら、「やり方がまずかった」と思った時だけである。実際、モラル・ハラスメントだとはっきりわかってしまったとしたら、それは巧みに隠しきれなかったからだ。すなわち、自分たちのやり方には、まだ改良の余地があるということである。(中略)
いや、この人たち――「自己愛的な変質者」たちには、良心とかそういったものはない。ただ、「これ以上のことをすると、警察に捕まって、自分が不愉快な目にあう」という認識があるだけだ。もしそうなら、自分が悪いことをしたとは思うはずがない。しかし、それでも、この人々の心のなかには、心の深いところにひそんだ「根深い悪意」といったものがあるように思われる。といっても、もちろんこの人々が自分のなかのその悪意の存在に悩んで、精神科医の診療所を訪れるわけではない。この人たちは、自分たちの行動がまったく正常なものだと思っているからだ。だから、治療を受けにくるなんて、とんでもない。もし、この人たちが診察室にやってくるとしたら、それはどうやったら、もっと巧みに「変質性」を隠すことができるか、それを訊きにくるのである。(P392〜393「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「純然たるモラル・ハラスメント」)
パワハラの実相とは、加害者が悪意をもって精神的暴力をふるい、被害者を傷つけることにある。ところが、その悪意を判定・断定することが難しい、すなわちパワハラを判定・断定することは難しいとのことは、前述したとおりである。その要因の一つが、パワハラの加害者が自分の悪意を否認する、認めようとしないことにあるのだ。多くの場合、加害者は悪意を認めることはない。被害者の受け取り方が間違っている、被害者の認識が間違っているというスタンスを、加害者は取るのである。
被害者としては、加害者が悪意を認め、謝罪でもすることになれば、パワハラから救済される。ずいぶんと傷ついた精神を救済されるはずである。しかし、加害者は悪意を否認し続けることがほとんどだ。そのことがパワハラの解決を難しくしているのである。
モラル・ハラスメントが行われる時、被害者の「仕事」が標的にされることはめったにない(それは仕事の出来不出来とも関係がない)。相手を傷つけようと加害者が意識しているかどうかはともかく、「仕事」ではなく「人格」が攻撃されるのである。このため、たとえ加害者が複数だったとしても、攻撃は個人的な形をとる。
この場合、加害者の目的は相手を支配することにある。したがって、まず何よりも相手の弱点を
攻撃して、自信を失わせようとするのである。そういったことから、加害者は相手が容易に変えることのできない性格や習慣を非難する。また、仕事について何か言う時も、「これこれこうだから、きみの仕事はいけない」と具体的に指摘するのではなく、「おまえは駄目だ」と人格を攻撃する形で言う。そこには問題を解決しようとか、対立を調整しようといった意思はない。あるのは相手を力ずくでねじ伏せようという気持ちだけだ。そして、その目的は相手が服従したところで達成される。
(中略)
モラル・ハラスメントの目的は相手を心理的に不安な状態に追いこんで、逆らうことができない
ようにすることである。そのためには、対等な関係ではなく、支配と服従の関係ができていることが望ましい。そうすれば、戦う前に相手は鎧(よろい)をはずしているからである。そういったことから――加害者は意識しているかどうかは別にして、純粋に仕事のことで相手を非難したりはしない。それよりも、相手が痛みを感じる個人的な事柄を攻撃するのである。[P77〜78「第2章モラル・ハラスメントであるもの」「仕事を批判するのではなく人格を攻撃する」]
この引用箇所で指摘されているように、加害者のパワハラ行為は対象者の弱点につけ込む行為である。しかも対象者の傷つき方の大きい弱点につけ込む行為である。そのため、仕事そのものの能力の無さにつけ込むよりも、対象者の人格の弱点につけ込むことが多い。職場での人々は完璧な人格を保持しているなどということはない。人格としては弱点を多く保持している存在だ。加害者はそこにつけ込んで、対象者を傷つけようとするのである。
同書によると、パワハラ行為は、加害者が被害者を支配し、服従させる目的で行われるという。この場合の「支配する」とは、被害者を傷つけ、被害者から正当な判断能力を奪い、自分の思い通りに被害者を捻じ曲げるということである。パワハラ行為は、多くの場合意識して、そうした恐ろしい目的を保持しているのである。被害者を傷つけ、破壊し、支配し、服従させることを目的として、人格の弱点を攻撃するのである。
公的機関と私企業では、モラル・ハラスメントの性質もちがってくる。一般に、私企業の場合は、モラル・ハラスメントの続く期間が短い。だが、そのやり方はより直接的で、たいていは被害者が辞めることで終わりになることが多い。これに対して、公的機関の場合は、モラル・ハラスメントの続く期間が長い――数年はおろか、時には十数年にわたって続くこともある。これは、公的機関の場合、よほど重大なミスを犯さないかぎり、解雇されないからである。また、加害者と被害者がともに同じ職場に長くいるということから、嫌がらせはより間接的――換言すれば、より陰湿なものになり、その結果は被害者の健康に計りしれない影響をもたらす(中略)。
ところで、公的機関というのは、言うまでもなく、公共にサービスを提供する機関である。そういったことからすると、その場所でモラル・ハラスメントが行われているというのは、かなりショッキングなことである。また、そこでモラル・ハラスメントが行われる理由も、「組織としての効率を高めて、激しい競争に勝ち抜く」ためではないということは明らかである。むしろ、「組織の内部で権力争いをする道具」として、モラル・ハラスメントが使われるのである。(中略)
また仕事の性質もモラル・ハラスメントを行うのに好都合であると言える。というのも、特に官公庁の仕事では、長期的な展望を与えられないまま、大量の書類の処理を命じられることが多い。したがって、職員はひとつひとつの仕事の重要性を理解することが難しい。また、仕事をするのに必要な情報が与えられない場合もある。そこにモラル・ハラスメントの入りこむ余地がある。
[官公庁および公企業 P163〜165]
次は医療機関である。医療機関ではことのほかモラル・ハラスメントが多い。(中略)
たとえば、イギリス南東部の公立の医療機関で働く一千人の看護婦と看護士に対して行われた調査によると、そのうち三八%がモラル・ハラスメントを受けたことがあり、四二%が「同僚がひどい仕打ちを受けたのを見たことがある」と回答している。また、被害者のうち三分の二がモラル・ハラスメントに抗議したが、その抗議も空しく、モラル・ハラスメントは続いたという。
いや、確かに医療の現場というのは体力的にも精神的にもきつい職場だろう。だが、患者のほうは、医師にしろ、看護婦にしろ、そのための訓練を受けていると思うからこそ、尊敬も抱き、また安心してその治療に身を任せているのである。その現場でモラル・ハラスメントが行われているというのは悲しいことである。
[医療機関 P183〜184]
教育機関・研究機関・私企業(中小企業、家族経営の企業、大手の量販店、ベンチャー企業)・慈善団体・スポーツの世界・政治の世界
以上が『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』にあるパワハラの起こりやすい職場・職種である。ここからわかるように、どの職場・職種においても、パワハラのないことのほうがまれであることだ。職場というのは、仕事をすることのきつさ、困難さを抱えているとは思う。そのきつさ、困難さがパワハラを生じさせているようにも思う。また、公的機関や医療機関、慈善団体(NPOなど)においてもパワハラが横行していることがわかる。利他性を追求する社会的なこれらの職種において、パワハラはないと考えがちだが、その先入観は誤解なのである。あらゆる職場・職種において、パワハラは生じているのである。それほどにパワハラと職場というのは、本質的に結びついていると考えられる。
]]>「〈敵意ある言動〉のリスト」として、『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』に以下のように箇条書きされている。これらは、精神的暴力としてのパワハラであり、職場における言動だと言える。身体的、物理的暴力によるパワハラについてはすでに書いたが、よりパワハラとして強く認識しなくてはいけないのは、精神的暴力としてのパワハラだと考えられる。
仕事に関連して相手を傷つける言動
・ 命令した仕事しかさせない
・ 仕事に必要な情報を与えない
・ 相手の意見にことごとく反対する
・ 相手の仕事を必要以上に批判したり、不当に非難するを取りあげる
・ 普通だったら任せる仕事をほかの人にさせる
・ 絶えず新しい仕事をさせる
・ 相手の能力からすると簡単すぎる仕事を、わざと選んでさせる
・ 相手の能力からすると難しすぎる仕事を、わざと選んでさせる
・ きちんとした理由のある休暇や遅刻・早退、助成金など、労働者として認められている権利を活用しにくくする
・ 昇進できないようにする
・ 意志に反して、危険な仕事をさせる
・ 相手の健康状態を考えた時、負担の大きすぎる仕事をさせる
・ 職務上、相手の責任になるような失敗を引き起こす
・ わざと実行不可能な命令を与える
・ 産業医の専門意見を考慮に入れない
・ わざと失敗させるように仕向ける
コミュニケーションを拒否して相手を孤立させる言動
・ 標的にした社員が話そうとすると、話をさえぎる
・ 相手に話しかけない(上司が部下に、同僚に、あるいはその両方)
・ メモや手紙、メールなど、書いたものだけで意志を伝える
・ 目も合わせないなど、あらゆるコンタクトを避ける
・ 仲間はずれにする
・ 一緒にいても、ほかの人たちだけに話しかけて、存在を無視する
・ 標的にした社員と話すことをほかの社員たちに禁じる
・ ほかの社員と話すのを許さない
・ 話し合いの要求に応じない
相手の尊厳を傷つける言動
・ 侮蔑的な言葉で相手に対する評価を下す
・ ため息をつく、馬鹿にしたように見る、肩をすくめるなど、軽蔑的な態度をとる
・ 標的にした社員について、同僚や上司、部下の信用を失わせるようなことを言う
・ 悪い噂を流す
・ 精神的に問題があるようなことを言う(「あいつは精神病だ」等)
・ 身体的な特徴や障害をからかったり、その真似をしたりする
・ 私生活を批判する
・ 出自や国籍をからかう
・ 信仰している宗教や政治的信条を攻撃する
・ 相手が屈辱だと感じる仕事をさせる
・ 猥褻な言葉や下品な言葉で相手を罵る
言葉による暴力、肉体的な暴力、性的な暴力
・ 殴ってやると言って、相手を脅す
・ わざとぶつかったりなど、たとえ軽いものであっても肉体的な攻撃を加える。目の前でパタンとドアを閉める
・ 大声でわめいたり、怒鳴りつける
・ 頻繁に電話をかけたり手紙を書いたりして、私生活に侵入する
・ 道であとをつける。家の前で待ち伏せする
・ 言葉や態度でセクシャル・ハラスメントを行う。性的な暴行を加える
・ 相手の健康上の問題を考慮に入れない
[第6章 モラル・ハラスメントを分類する(敵意ある言動・P142〜143)]
相談を受けた側の「相談ノウハウ」について、さらに記述していこう。
最近、「ブラック企業」という言い方が広く流布されている。労働条件が悪く、過酷な労働を強いる企業のことを意味する用語である。ときには労働基準法さえ守らないような、法律すれすれの労働条件を強いる企業を指す。そういう「ブラック企業」は、経営環境が悪化し、効率化による費用削減に走る日本企業において増えている。そして、問題視されている。高校生や大学生などの学生が就職する際、「ブラック企業」を避けたいという要望が強まっている。また、「ブラック企業」に就職した生徒や学生が、そのことを理由にすぐに辞めてしまうことも問題となっている。
多くの日本人が、その「ブラック企業」の労働条件の改善を主張しているのも事実である。しかしその一方で、「ブラック企業と言って、そこから逃げる風潮は良くない。そのくらいのことは会社だから当然、ある。それでも働き続ける気概が必要だ。気概がないのが問題だ。我慢強くなければならない」と、企業側に同調的な意見が多く見られるのである。家族や企業関係者の多くが、企業経営のひどさを指摘しないで、企業側に同調的な意見を表明しているのである。
このような主張に対峙して、私の意見はそれらとは異なる。前節の意見は、「ブラック企業」で働く人々の気持ちを理解しているとは言えない。企業に問題があることは普通に考える以上に多いのであり、批判されるべきは企業の側であることも多い。そのため「ブラック企業」のような企業に同調する立場を採るべきではないのである。逆に、「ブラック企業」で働く人々の側に立って、彼らの職場で置かれている境遇に同調すべきなのである。
本題に戻ろう。パワハラを受けた被害者が、その窮状を外部の友人やパワハラと関係していない同僚や上司に相談したとしよう。そのとき、その相談を受けた多くの関係者が、当の被害者ではなく、被害を及ぼしている加害者の側に同調した意見を表明するのではないだろうか。それは、「ブラック企業」に直面して、その劣悪な労働条件について相談した場合と同じになると思うのだ。「パワハラだと言って、そこから逃げる風潮は良くない。それでも働き続ける気概が必要だ。気概がないのが問題だ。我慢強くなければならない」。さらには、「おかしいのはあなたのほうだ」「会社なのだからそのくらいのことはある」「あまいんじゃないの」「あなたのほうが反省しなくてはいけない」という言辞が返ってくるのではないかとさえ思う。
私のいくらかの経験から言って、パワハラを受けた被害者が相談した場合、半分の人はそういう対応をするのではないかと思う。そこまでひどくなくても、けんか両成敗ではないが、被害者と加害者との中間、中立的なアドバイスになってしまうのではないか。そして被害者は、こうした言辞でアドバイスされるのを不安に思い、相談することを躊躇してしまうこともあると思うのである。
相談を受けた人の、そうした相談対応は、「相談ノウハウ」として採用すべきではない。これでは正しい「相談ノウハウ」とは言えない。前項で記述したように、被害者の側に立って、「傾聴」することが大切であり、「寄り添う」ことが必要であると、私には思える。被害者として相談する人の身になって、その人がいまどのような境遇に置かれているのかに注目すべきなのだ。被害者の相談内容を理解したうえでの、被害者に同調した相談・アドバイスが必要なのである。
正しい「相談ノウハウ」が欠如していることが、パワハラの被害者の相談しづらい要因になっている。そして私の言う、正しい「相談ノウハウ」の確立が待たれるのであり、それが人々の常識として、広がることが期待されるのである。
]]>パワハラをテーマにした裁判においてはさらに難しいはずだ。身体的暴力とは違い、精神的暴力によるパワハラは、その暴力としての発言や指示の動機は、いずれも抽象的なものである。被害者が説明しづらいものである。そのため、裁判による判断を難しいものにしている。最近では被害者が勝訴する判決も多くなっているようだ。しかし、被害者が告訴するまでに持っていくのは難しいし、裁判所に違法性を判定・断定してもらうことはさらに難しい。
精神的暴力によるパワハラは、その判定・断定が難しいという性格を持っている。そのことが、「職場に横行するパワハラ」という問題を抽出し、解決することをより一層、困難なものにしている。