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プレイヤー・選手としての就業

 2013年8月、大リーグ野球のニューヨーク・ヤンキースに所属するイチローが、日米通算4千本安打を達成した。すばらしい記録である。この私たちに長年にわたって感動を与えるイチローは、大リーグでも有数のすぐれたプレイヤー、選手として、いまも活躍し続けている。

 いま私は、「イチローがすぐれたプレイヤー、選手である」と記述した。イチローのことを何気なく私たちはこう言っている。しかし、この「プレイヤー・選手」という言葉には普通に考える以上の意義が込められるのではないか、と私は考えたい。「プレイヤー・選手」という人間の在り様を示す言葉にこだわってみたい。

 会社は「プレイヤー・選手」の集まる組織である。社長も「プレイヤー・選手」である。マネジメントをする部長、課長も「プレイヤー・選手」である。下位の一般の会社員も「プレイヤー・選手」である。そのように私は考えてみた。ここでは社長が部長や課長や従業員を「管理する」とか、部長や課長などの上司が、部下を「管理する」という考え方は一次的には入ってこない。地位に関係なく全ての所属員は、それぞれに、そして一律に、「プレイヤー・選手」なのである。

イチローがすぐれているのは、あくまでも「プレイヤー・選手」としてなのである。管理者としての監督やコーチとしてすぐれているわけではない。将来的に監督やコーチになるかもしれないし、ならないかもしれない。仮に監督やコーチになっても、すぐれた監督やコーチになるかは不明であり、別問題だ。あくまでもイチローは、「プレイヤー・選手」として我々を魅了する。

会社においても同じように考える、ということを、私はここで提案したい。全ての所属員は「プレイヤー・選手」なのだと考えてみたい。そして、そうした在り様の個人が集まるのが、会社という組織である。全ての個人、全ての「プレイヤー・選手」が快適に、そして十全に働くことのできる職場を作りたい。そんなふうに考えたいのである。

現在のもう一つの事例として、マラソン大会に参加する人々が非常に多いことに注目しよう。各地で頻繁に行われるマラソン大会に、なぜこれほど多くの人々が参加するのか。

この場合のスポーツ競技としてのマラソンは、あくまでも個人競技である。すなわち個人の能力を、「プレイヤー・選手」として競うのがマラソンである。しかも同条件で、公平な基準で競うのである。その基本的なことに、非常に多くの人が参加している理由があるのだ。そしてマラソンという競技の魅力があるのだ。

人々は、マラソンというスポーツ競技に対し、「プレイヤー・選手」としての自らの人生や会社での就業を、精神的にアナライズしているのではないか。そのように、私には思えるのである。

at 14:37, 砂田好正, 人間中心の職場作り

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