プレイヤー・選手としての就業

 2013年8月、大リーグ野球のニューヨーク・ヤンキースに所属するイチローが、日米通算4千本安打を達成した。すばらしい記録である。この私たちに長年にわたって感動を与えるイチローは、大リーグでも有数のすぐれたプレイヤー、選手として、いまも活躍し続けている。

 いま私は、「イチローがすぐれたプレイヤー、選手である」と記述した。イチローのことを何気なく私たちはこう言っている。しかし、この「プレイヤー・選手」という言葉には普通に考える以上の意義が込められるのではないか、と私は考えたい。「プレイヤー・選手」という人間の在り様を示す言葉にこだわってみたい。

 会社は「プレイヤー・選手」の集まる組織である。社長も「プレイヤー・選手」である。マネジメントをする部長、課長も「プレイヤー・選手」である。下位の一般の会社員も「プレイヤー・選手」である。そのように私は考えてみた。ここでは社長が部長や課長や従業員を「管理する」とか、部長や課長などの上司が、部下を「管理する」という考え方は一次的には入ってこない。地位に関係なく全ての所属員は、それぞれに、そして一律に、「プレイヤー・選手」なのである。

イチローがすぐれているのは、あくまでも「プレイヤー・選手」としてなのである。管理者としての監督やコーチとしてすぐれているわけではない。将来的に監督やコーチになるかもしれないし、ならないかもしれない。仮に監督やコーチになっても、すぐれた監督やコーチになるかは不明であり、別問題だ。あくまでもイチローは、「プレイヤー・選手」として我々を魅了する。

会社においても同じように考える、ということを、私はここで提案したい。全ての所属員は「プレイヤー・選手」なのだと考えてみたい。そして、そうした在り様の個人が集まるのが、会社という組織である。全ての個人、全ての「プレイヤー・選手」が快適に、そして十全に働くことのできる職場を作りたい。そんなふうに考えたいのである。

現在のもう一つの事例として、マラソン大会に参加する人々が非常に多いことに注目しよう。各地で頻繁に行われるマラソン大会に、なぜこれほど多くの人々が参加するのか。

この場合のスポーツ競技としてのマラソンは、あくまでも個人競技である。すなわち個人の能力を、「プレイヤー・選手」として競うのがマラソンである。しかも同条件で、公平な基準で競うのである。その基本的なことに、非常に多くの人が参加している理由があるのだ。そしてマラソンという競技の魅力があるのだ。

人々は、マラソンというスポーツ競技に対し、「プレイヤー・選手」としての自らの人生や会社での就業を、精神的にアナライズしているのではないか。そのように、私には思えるのである。

at 14:37, 砂田好正, 人間中心の職場作り

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小池都知事について

広住さんへの手紙

 希望の塾のご報告、ありがとうございました。お疲れ様でした。入塾されて初回の塾はいかがでしたか。

小池さんをはじめ、現代で支持される人物、特に支持される政治家は、嫌いな言葉という人がいるかもしれませんが、どこかで「利他性」をもっていると思います。「都民ファースト」とか、「アスリート・ファースト」とか、小池さんの言葉には、政治家には珍しく、「利他性」の要素が感じられます。

 そういう意味では、小池さんは、多くの政治家がそうであるように、「利己的」な勝負師ではありません。「利他的」な要素を持った勝負師だからこそ、これほど支持されるのだと思います。

 政治家・小池さんの、都知事選挙とそれに続く都知事としての一連の振る舞いを見てきて、僕を含めて我々国民が、いかに政治家の「利他性」を渇望してきたかがわかります。この場合の「利他性」とは、我々国民のための政治、我々国民のことを思いやってくれる政治家、ということです。戦後の政治や政治家を見てきて、そういう意味の「利他性」、そういう意味の「国民を思いやる姿勢」が、まったくと言っていいほどに感じられませんでした。自分の出世だけを考えるような、日本という国のGDPが高まることだけを求めるような、「利己性」が蔓延していました。小池さんの都知事としての登場は、政治や政治家のあり方に、明らかに一石を投じています。そして僕自身も、多くの国民も、小池さんの登場を支持し、小池さんに期待しています。       

 小池さんは、国民のことを考えていると我々国民に感じさせ、国民を思いやる政治家であると感じます。そういう意味で、「利他性」の要素をもった政治家です。ちょっとほめすぎかなとは思いつつ、そんなことを広住さんのご報告を読みながら、感じました。

at 13:32, 砂田好正, 政治や行政

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軍隊の価値観と犯罪

 沖縄で、米国元海兵隊員による女性強姦・殺害事件が起きた。沖縄では、繰り返される同様の事件に対し、抗議の声がより強くなり、反基地の意識が高まりを見せている。基地がなくならなければ、こうした悲劇が繰り返されるという沖縄の人々の、抗議の気持ちは強いものがある。
 戦後に東京で生まれ、東京で育った私もまた、犯人が元海兵隊員(すなわち元軍人)であることと、その卑劣な犯罪が無関係ではないと考える一人である。犯人が元軍人であることとその犯罪とは大いに関連している、と思うのだ。そのことを改めて考えさせられた事件であった。
 軍隊という組織の価値観は、一般の我々生活者の価値観とは違う。その価値観は、自分が殺害される前に敵を殺害しろ、それが軍人のあるべき姿である、というものである。軍隊ではそうした価値観が徹底的に叩き込まれる。その価値観に基づいて、敵を殺害するための、あらゆる方法の訓練を受ける。殺害方法だけでなく、人間を殺害するときに生じる精神的躊躇をなくすための訓練も、同時に受けるのである。今回の卑劣な犯罪も、軍人としてその訓練を受け、軍隊の価値観に支配された一軍人の犯行であることを忘れてはならない。軍隊の価値観が軍人の卑劣な行為に影響を与え、非人間的な行為の背中を押しているのである。軍隊の価値観そのものが犯罪を生んでいるのではないにしても、異様な犯罪を生む原因になっているのである。
 軍隊では、我々一般の生活者の価値観、すなわち「生きとし生けるものの命を大切に」などという価値観は、ほとんど無力である。軍隊は、一般の生活者とは真逆の、敵とは言え、「人間を殺害しろ」という価値観に支配されている。だからこそ、沖縄の人々が、軍事基地がなくならなくては軍人の卑劣な犯罪はなくならないと感じるのではないだろうか。そのことの正当性が、僕には見て取れるのである。
 

at 07:48, 砂田好正, 戦争と軍隊

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小説『東京・被災地街道』砂田好正著

著者の自宅の近くを走る【都バス「白61」】にまつわる小説。東日本大震災に関わる著者が、この【都バス「白61」】の走る沿道を「東京・被災地街道」と名付け、自らの人生に準えて描いている。東京で生まれ育った著者の人生を振り返った私小説でもあるが、東日本大震災の復興に関わることがなければ、この小説は生まれることはなかった。著者の初の書下ろし小説である。
http://hisaichi.wiselink.biz/
 

at 20:18, 砂田好正, -

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村上春樹エッセー抜粋

『職業としての小説家』村上春樹 螢好ぅ奪繊Ε僖屮螢奪轡鵐鞍行
第八回「学校について」を全て転載(僕がこのエッセー・意見に共感したため)
 
今回は学校の話をします。僕にとって学校はどのような場所(あるいは状況)であったのか、学校教育は小説家である僕にとって、どのように役に立ってきたのか、あるいは役に立ってこなかったのか? そういうことについて語ってみたいと思います。
 僕の両親は教師でしたし、僕自身もアメリカの大学で何度かクラスを受け持ったことはあります(教員免許みたいなもとは持っていませんが)。しかし率直に申し上げまして、学校というものが僕は昔からわりに苦手でした。自分の通った学校について考えると、こんなことを言うのは学校に対してまことに心苦しいのですが(すみません)、あまり良い思い出は蘇ってきません。首筋がなんだかもさもさとむず痒くなってくるくらいです。まあこれは、学校そのものに問題があったというよりは、むしろ僕の方に問題があったということかもしれませんが。
 いずれにせよ、大学をなんとかようやく卒業したときは、「ああ、これでもう学校に行かなくてもいいんだ」と思ってほっとしたことを覚えています。やっと肩から重い荷物を下ろすことができたという感じでした。学校が懐かしいと思ったことは(たぶん)一度もないかもしれない。じゃあどうして僕は今頃になって、わざわざ学校について語ろうとしているのか?
 それはおそらく僕が――もう学校から遥か遠く離れた人間として――そろそろ僕自身の学校体験について、あるいは教育というもの全般について、感じていることや思っていることを、自分なりに整理して語ってもいいんじゃないかと思うようになったからだと思います。というか、自分を語るにあたって、ある程度そのへんを明らかにしておくべきなんじゃないかと。またそれに加えて、最近になって、登校拒否(回避)をした経験のある何人かの若い人と会って話をしたことも、あるいはその動機のひとつになっているかもしれません。
 
 本当に正直なところ、僕は小学校から大学まで一貫して、学校の勉強がそんなに得意ではありませんでした。とくにひどい成績だったとか、落ちこぼれだったとか、そういうわけではなくて、まあそこそこはできたとは思うんですが、勉強するという行為自体がもともとそんなに好きではなかったし、実際あまり勉強しなかった。僕のかよった神戸の高校は、公立のいわゆる「受験校」で、一学年に六百人を超える生徒がいるような大きな学校でした。僕らは「団塊の世代」ですから、なにしろ子供の数が多かったんです。それでそれぞれの科目の定期試験の、上位五十人くらいの名前が公表されるのですが(たしかそうだったと記憶しています)、そのリストに僕の名前が載ることはまずなかった。つまり上位一割くらいの「成績優秀な生徒」というのではまったくなかったわけです。まあよく言って、中の上というあたりではなかったかと思います。
 なぜ学校の勉強を熱心にしなかったかというと、いたって簡単な話で、まずだいいちにつまらなかったからです。あまり興味が持てなかった。というか、学校の勉強なんかより楽しいことが世の中にはたくさんありました。たとえば本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見に行ったり、海に泳ぎに行ったり、野球をしたり、猫と遊んだり、それからもっと大きくなると、友だちと徹夜麻雀をしたり、女の子とデートをしたり……というようなことです。それに比べれば学校の勉強というのはかなりつまらなかった。考えてみれば、まあ当たり前のことですね。
 でも僕としては、勉強を怠けて遊びほうけているという意識はとくにありませんでした。本をたくさん読んだり、音楽を熱心に聴いたりすることは――あるいは女の子とつきあうことだって含めていいかもしれませんが――僕にとっては大事な意味を持つ個人的な勉強なんだと、心の底でわかっていたからだと思います。ある意味ではむしろ学校の試験なんかより大切なものなんだと。自分の中で当時、どれくらいそのへんが明文化され、また理論化されていたか、正確には思い出せないのですが、「学校の勉強なんてつまらないよ」と開き直れる程度には認識していたような気がします。もちろん学校の勉強でも、興味のあるトピックについては自ら進んで勉強もしましたが。
 それから他人と順位を競い合ったりすることに、昔からあまり興味が持てなかったということもあります。何も格好をつけて言うわけじゃないんですが、点数とか順位とか偏差値(僕が十代の頃にはありがたいことに、そんなものは存在しませんでした)とか、そういう具体的に数字に表れる優劣にもうひとつ心が惹かれないのです。これはもう生まれつきの性格という以外にないと思います。負けず嫌いな傾向も(ことによっては)なくはないんですが、他人との競争というレベルでは、そういうものはほとんど出てきません。
 とにかく、本を読むことは当時の僕にとって何よりも重要でした。言うまでもないことですが、世の中には教科書なんかよりずっとエキサイティングで、深い内容を持つ本がいっぱいあります。そういう本のページを繰っていると、その内容が読む端から自分の血肉になっているという、ありありとした物理的な感触がありました。だから試験勉強を真剣にやろうというような気持ちになかなかなれなかった。年号や英単語を機械的に頭に詰め込んで、それが先になって自分の役に立つとはあまり思えなかったからです。系統的にではなく機械的に暗記したテクニカルな知識は、時間が経てば自然にこぼれ落ちて、どこかに――そう、知識の墓場みたいな薄暗いところに――吸い込まれて消えていきます。そういうもののほとんどには、いつまでも記憶に留めておくだけの必然性がないからです。
 そんなものより、時間が経っても消えずに心に残るものの方が遥かに大事です。当たり前の話ですね。しかしそういう種類の知識にはあまり即効性はありません。そういう知識が真価を発揮するまでには、けっこう長い時間がかかります。残念ながら目前の試験の成績には直接結びつきません。即効性と非即効性の違いは、たとえて言うなら、小さいやかんと大きなやかんの違いです。小さなやかんはすぐにお湯が沸くので便利ですが、すぐに冷めてしまいます。一方大きなやかんはお湯が沸くまでに時間がかかるけれど、いったん沸いたお湯はなかなか冷めません。どちらがより優れているというのではなく、それぞれに用途と持ち味があるということです。上手に使い分けていくことが大事になります。
 
 僕は高校時代の半ばから、英語の小説を原文で読むようになりました。とくに英語が得意だったわけじゃないんですが、どうしても原語で小説を読みたくて、あるいはまだ日本語に翻訳されていない小説を読みたくて、神戸の港の近くの古本屋で、英語のペーパーバックを一山いくらで買ってきて、意味がわかってもわからなくても、片端からがりがり乱暴に読んでいきました。最初はとにかく好奇心から始まったわけです。そしてそのうちに「馴れ」というか、それほど抵抗なく横文字の本が読めるようになりました。当時の神戸には外国人が多く住んでいたし、大きな港があるので船員もたくさんやってきたし、そういう人たちが、まとめて売っていく洋書が古本屋にいけばいっぱいありました。僕が当時読んでいたのは、ほとんどが派手な表紙のミステリーとかSFとかですから、それほどむずかしい英語じゃありません。言うまでもないことですが、ジェームズ・ジョイスとかヘンリー・ジェイムストカ、そんなややこしいものは高校生にはとても歯が立ちません。しかしいずれにせよ、本を一冊、最初から最後までいちおう読めるようになりました。なにしろ好奇心がすべてです。しかしその結果、英語の試験の成績が向上したかというと、そんなことはぜんぜんありません。あいかわらず英語の成績はぱっとしませんでした。
 どうしてだろう? 僕は当時、そのことについてはけっこう考え込んでしまいました。僕より英語の試験の成績が良い生徒はいっぱいいるけれど、僕の見たところ、彼らには英語の本を一冊読み通すことなんてまずできません。でも僕にはおおむねすらすら楽しんで読める。なのにどうして、僕の英語の成績は相変わらずあまり良くないのだろう?それで、あれこれ考えた末に僕なりに理解できたのは、日本の高校における英語の授業は、生徒が生きた実際的な英語を身につけることを目的としておこなわれていないのだということでした。
 じゃあいったい何を目的としているのか? 大学受験の英語テストで高い点数を取ること、それをほとんど唯一の目的としているのです。英語で本を読めたり、外国人と日常会話ができたりなんてことは、少なくても僕の通った公立校の英語の先生にとっては、些末なことでしかありません(「余計なこと」とまでは言いませんが)。それよりひとつでも多くのむずかしい単語を記憶したり、仮定法過去完了がどういう構文になるかを覚えたり、正しい前置詞や冠詞を選んだり、というようなことが重要な作業になります。
 もちろんその手の知識も大事です。とくに職業として翻訳をするようになってからは、そのような基礎知識の手薄さを、改めて痛感しました。でもそういう細かいテクニカルな知識は、その気にさえなれば、あとからいくらでも補強できます。あるいは現場で仕事をしながら、必要に応じて自然に身につけていけます。それよりもっと大事なのは「自分は何のために英語(あるいは特定の外国語)を学ぼうとしているのか」という目的意識です。それが曖昧だと、勉強はただの「苦役」になってしまいます。僕の場合の目的はとてもはっきりしていました。とにかく英語で(原語で)小説が読みたい。とりあえずはそれだけです。
 言語というのは生きているものです。人間も生きているものです。生きている人間が生きている言語を使いこなそうとしているのだから、そこにはフレキシビリティーがなくてはなりません。実に当たり前のことなんだけど、学校というシステムの中では、そういう考え方はぜんぜん当たり前のことではなかった。そういうのはやはり不幸なことだと僕は思うんです。つまり学校というシステムと、僕というシステムがうまくかみ合っていなかったということになります。だから学校に行くことがあまり楽しくなかった。仲の良い友たちやらがクラスにいたから、いちおう毎日通っていましたが。
 もちろん「僕の時代はそうだった」ということですし、僕が高校時代だったのは半世紀近く昔のことです。それから状況はずいぶん変化したのだろうと思います。世界はどんどんグローバル化しているし、コンピュータや録音録画機器などの導入によって教育現場の設備も改良され、ずいぶん便利になっているはずです。とはいえその一方で、学校というシステムのあり方、その基本的な考え方は、今でも半世紀前とそれほど違いがないんじゃないか、という気がしないでもありません。外国語に関しておうなら今だってやはり、本当に生きた外国語を身につけるためには、個人的に外国に出て行くっしか方法がないみたいです。ヨーロッパなんかに行くと、若い人たちはたいてい流暢に英語を話します。本なんかも英語でどんどん読んでしまう(おかげで各国の出版社は自国語に翻訳された本が売れなくて困っているくらいです)。でも日本の若い人たちの多くはしゃべるにせよ、書くにせよ、今でもまだ生きた英語を使うことが苦手なようです。これはやはり大きな問題だと僕は考えます。このようないびつな教育システムをそのままに放置しておいて、一方で小学生のうちから英語を勉強させたって、そんなものはあまり役に立たないでしょう。教育産業を儲けさせるだけです。
 英語(外国語)だけではありません。ほとんどすべての学科において、この国の教育システムは基本的に、個人の資質を柔軟に伸ばすことをあまり考慮していないんじゃないかと思えてなりません。いまだにマニュアル通りに知識を詰め込み、受験技術を教えることに汲汲としているように見えます。そしてどこの大学に何人合格したというようなことに、教師も父兄も真剣に一喜一憂している。これはいささか情けないことですよね。
 学校に通っている間、よく両親から、あるいは先生から「学校にいる間にとにかくしっかり勉強をしておきなさい。若いうちにもっと身を入れて学んでおけばよかったと、大人になってから必ず後悔するから」と忠告されましたが、僕は学校を出たあと、そんな風に思ったことはただの一度もありません。むしろ「学校にいる間にもっとのびのびと好きなことをしておけばよかった。あんなつまらない暗記勉強をさせられて、人生を無駄にした」と後悔しているくらいです。まあ僕はいささか極端なケースかもしれませんが。
 
 僕は自分の好きなこと、興味のあることについては、身を入れてとことん突き詰めていく性格です。中途半端なところで、「まあ、いいか」と止まってしまったりはしません。自分の納得のいくところまでやる。しかし興味が持てないことは、それほど身を入れてやらない。というか、身を入れようという気持ちにどうしてもなれないのです。「これをやりなさい」とよそから(とくに上から)命じられたことに関しては、どうしてもおざなりにしかできないのです。
 スポーツにしてもそうです。僕は小学校から大学まで、体育の授業がいやでいやでしょうがありませんでした。体操着に着替えさせられて、グラウンドに連れて行かれて、やりたくもない運動をさせられるのが苦痛でたまらなかった。だからずっと長いあいだ自分は運動が不得意なんだと思っていました。でも社会に出て、自分の意思でスポーツを始めてみると、これがやたら面白いんです。「運動するのってこんなに楽しいものだったのか」と目から鱗がぼろぼろと落ちたような気持ちがしました。じゃあ、これまで学校でやらされてきたあの運動はいったい何だったんだろう? そう思うと茫然としてしまいました。もちろん人それぞれですし、簡単に一般化はできないでしょうが、極端に言えば、学校の体育の授業というのは、人をスポーツ嫌いにさせるために存在しているのではないのか、そういう気さえしました。
 もし人間を「犬的人格」と「猫的人格」に分類するなら、僕はほぼ完全に猫的人格になると思います。「右を向け」と言われたら、つい左を向いてしまう傾向があります。そういうことをしていて、ときどき「悪いな」とは思うんだけど、それが良くも悪くも僕のネイチャーになっています。そして世の中にはいろんなネイチャーがあっていいはずです。でも僕が経験してきた日本の教育システムは、僕の目には、共同体の役に立つ「犬的人格」をつくることを、ときにはそれを超えて、団体丸ごと目的地まで導かれる「羊的人格」をつくることを目的としているようにさえ見えました。
 そしてその傾向は教育のみならず、会社や官僚組織を中心とした日本の社会システムそのものにまで及んでいるように思えます。そしてそれは――その「数値重視」の硬直性と、「機械暗記」的な即効性・功利性志向は――様々な分野で深刻な弊害を生み出しているようです。ある時期にはそういう「功利的」システムはたしかにうまく機能してきました。社会全体の目的や目標がおおむね自明であった「行け行け」の時代には、そういうやり方が適していたかもしれません。しかし戦後の復興が終わり、高度経済成長が過去のものとなり、バブル経済が見事に破綻してしまったあと、そういう「みんなで船団を組んで、目的地に向かってただまっすぐ進んでいこうぜ」的な社会システムは、その役割を既に終えてしまっています。なぜなら僕らのこれからの行き先はもう、単一の視野では捉えきれないものになってしまっているからです。
 もちろん世の中が僕みたいな身勝手な性格の人間ばかりだったら、それはそれで困ったことになるでしょう。しかしさきほどの喩えで言えば、大きなやかんと小さなやかんは、台所の中で上手に併用されなくてはなりません。用途に応じて目的に応じて、それらをうまく使い分けていくのが人間の知恵というものです。あるいはコモンセンスというものです。いろんなタイプの、いろんな時間性の思考方法や世界観がうまく組み合わされ、それで初めて社会が円滑に、良い意味で効率よく動いていくのです。簡単に言えば「システムの洗練化」ということになるのかもしれません。
 どんな社会においてももちろんコンセンサスというものは必要です。それなくしては社会は立ちゆきません。しかしそれと同時に、コンセンサスからいくらか外れたところにいる比較的少数派の「例外」もそれなりに尊重されなくてはなりません。あるいはきちんと視野に収められていなければなりません。成熟した社会にあっては、そのバランスが重要な要素になってきます。そのバランスのとり方によって、社会に奥行きと深みと内省が生まれます。でも見たところ現在の日本では、そういう方向に向けての舵がまだ十分うまく切られていないようです。
 
 たとえば二〇一一年三月の、福島の原子力発電所事故ですが、その報道を追っていると、「これは根本的には、日本の社会システムそのものによってもたらされた必然的災害(人災)なんじゃないか」という暗澹とした思いにとらわれることになります。おそらくみなさんもおおむね同じような思いを抱いておられるのではないでしょうか。
 原子力発電所事故のために、数万の人々が住み慣れた故郷を追われ、そこに帰るめどさえ立たないという立場に追い込まれています。本当に胸の痛むことです。そのような状況をもたらしたものは、直接的に見れば、通常の想定を超えた自然災害であり、いくつか重なった不運な偶然です。しかしそれがこのような致命的な悲劇の段階にまで推し進められたのは、僕が思うに現行システムの抱える構造的な欠陥のためであり、それが生み出したひずみのためです。システム内における責任の不在であり、判断能力の欠落です。他人の痛みを「想定」することのない、想像力を失った悪しき効率性です。
「経済効率が良い」というだけで、ほとんどその一点だけで、原子力発電が国策として有無を言わせず推し進められ、そこに潜在するリスクが(あるいは実際にいろんなかたちでちょくちょくと現実化してきたリスクが)意図的に人目から隠蔽されてきた。要するにそのつけが今回我々にまわってきたわけです。そのような社会システムの根幹にまで染み込んだ「行け行け」的な体質に光を当て、問題点を明らかにし、根本から修正していかない限り、同じような悲劇がまたどこかで引き起こされるのではないでしょうか。
 原子力発電は資源を持たない日本にとってどうしても必要なんだという意見には、それなりに一理あるかもしれません。僕は原則として原子力発電には反対の立場をとっていますが、もし信頼できる管理者によって注意深く管理され、しかるべき第三者機関によって運営が厳しく監視され、すべての情報が正確にパブリックに開示されていれば、そこにはある程度の話し合いの余地があるかもしれません。しかし原子力発電のような致命的な被害をもたらす可能性を持つ設備が、ひとつの国を滅ぼすかもしれない危険性をはらんだシステムが(実際にチェルノブイリ事故はソビエト連邦を崩壊させる一因になりました)、「数値重視」「効率優先」的な体質を持つ営利企業によって運営されるとき、そして人間性に対するシンパシーを欠いた「機械暗記」「上意下達」的な官僚組織がそれを「指導」「監視」するとき、そこには身の毛もよだつようなリスクが生まれます。それは国土を汚し、自然をねじ曲げ、国民の身体を損ない、国家の信用を失墜させ、多くの人々から固有の生活環境を奪ってしまう結果をもたらすかもしれません。
 
 話がいささか広がってしまいましたが、僕が言いたいのは、日本の教育システムの矛盾は、そのまま社会システムの矛盾に結びついているのだということです。あるいはむしろその逆かもしれませんが。いずれにせよそのような矛盾をこのまま放置しておくような余裕はもはやないというところまで来てしまいました。
 とにかく、また学校のことに話を戻します。
 僕が学校時代を送った一九五〇年代後半から六〇年代にかけては、いじめや登校拒否は、まだそれほど深刻な問題にはなっていませんでした。もちろん学校や教育システムに問題がなかったというのではないのですが(問題はけっこうあったと思います)、少なくても僕自身に関していえば、自分のまわりにいじめや登校拒否の例を目にすることはほとんどありませんでした。いくつかあるにはあったけれど、それほど深刻なものではありませんでした。
 戦後まだ間がない時代で、国全体がまだ比較的貧しく、「復興」「発展」というはっきりとした目標を持って動いていたせいがあるのだろうと僕は考えます。問題や矛盾を含んでいるにせよ、そこには基本的にポジティブな空気がありました。子供たちの間にもおそらく、そういうまわりの「方向性」のようなものは、目に見えず作用していたのでしょう。子供たちの世界であっても、ネガティブな精神モーメントが大きな力を持つことは、日常的にあまりなかったように思います。というか、「このままがんばっていれば、まわりの問題や矛盾はそのうちにだんだん消えていくのではないか」という楽観的な思いが基本にありました。だから僕も学校がそれほど好きではなかったけれど、まあ「行くのが当たり前」のこととして、とくに疑問も抱かず、わりに真面目に学校に通っていました。
 でも今では、新聞や雑誌やテレビの報道にそのような話題が出てこない日が珍しいというくらい、いじめや登校拒否は大きな社会問題になっています。いじめを受けた少なくない数の子供たちが、自らの命を絶っています。これは本当に悲劇という以外に言いようがありません。いろんな人がそのような問題についていろんな意見を述べ、社会的にいろんな対策がとられていますが、その傾向が収まる気配はいっこうに見えません。
 なにも生徒同士のいじめだけではありません。教師の側にもかなり問題がありそうです。けっこう前の話になりますが、神戸の学校で始業ベルとともに正門の重い扉を先生が閉めて、女生徒そこに挟まれて亡くなってしまったという事件がありました。「最近は生徒の遅刻があまりに多く、そうせざるを得なかった」というのが、その教師の弁明でした。遅刻するのはもちろんあまり褒められたことではありません。しかし学校に数分遅刻することと、一人の人間の命とどちらが重い価値を持つか、そんなのは考えるまでもないことです。
 この先生の中では「遅刻を許さない」という狭い目的意識が頭の中で異様に特化して膨らんで、世界をバランス良く見る視野が失われています。バランスの感覚というのは教育者にとってとても大切な資質であるはずなのですが。新聞には「でもあの先生は教育熱心な良い先生だったから」という父兄のコメントも載っていました。しかしそういうことを口にする――口にできる――方にもかなり問題がありそうです。殺された側の、押しつぶされた痛みはいったいどこにやられてしまったのでしょう?
 比喩的に生徒を圧殺してしまう学校というものは想像できるのですが、肉体的に実際に生徒を圧死させてしまう学校となると、これは僕の想像を遥かに超えています。
 そのような教育現場の病的症状(と言っていいと思います)は、言うまでもなく、社会システムの病的症状の投影にほかなりません。社会全体に自然な勢いがあり、目標がしっかり定まっていれば、教育システムに多少の問題があったとしても、それはなんとか「場の力」でもってうまく乗り越えられます。しかし社会の勢いが失われ、閉塞感のようなものがあちこちに生まれてきたとき、それが最も顕著に現れ、最も強い作用を及ぼすのは教育の場です。学校があり、教室です。なぜなら子供たちは、坑道のカナリアと同じで、そういう濁った空気をいちばん最初に、最も敏感に感じ取る存在であるからです。
 さっきも申し上げましたように、僕が子供だった頃は、社会そのものに「伸びしろ」がありました。だから個人と制度のせめぎ合いみたいな問題も、そのスペースに吸収されていって、それほど大きな社会問題にならなかった。社会全体が動いていたから、そのモーメントがいろんな矛盾やフラストレーションを呑み込んでいきました。別の言い方をすれば、困ったときに逃げ込むことのできる余地や隙間みたいなものが、あちこちにあったわけです。しかし高度成長時代も終わり、バブルの時代も終わった今となっては、そういう避難スペースを見つけることがむずかしくなっています。大きな流れにまかせておけばなんとかなる、というようなおおまかな解決方法はもはや成立しません。
 そういう「逃げ場の不足した」社会がもたらす教育現場の深刻な問題に対して、我々はなんとか新たな解決方法を見つけていく必要があります。というか、順番から言いますと、その新たな解決方法を見つけることのできそうな場所を、まずどこかにこしらえていく必要があります。
 それはどのような場所か?
 個人とシステムとがお互いに自由に動き、穏やかにネゴシエーションしながら、それぞれにとって最も有効な接面を見出していくことのできる場所です。言い換えれば、一人ひとりがそこで自由に手足を伸ばし、ゆっくり呼吸できるスペースです。制度、ヒエラルキー、効率、いじめ、そんなものから離れられる場所です。簡単に言えば、温かな一時的避難場所です。誰でもそこに自由に入っていけるし、そこから自由に出て行くことができます。それは言うなれば「個」と「共同体」との緩やかな中間地域に属する場所です。そのどのあたりにポジションをとるかは、一人ひとりの裁量にまかされています。とりあえずそれを僕は「個の回復スペース」と呼びたいと思います。
 最初は小さなスペースでいいんです、何も大がかりなものでなくてもいい。手作りみたいな狭い場所で、とにかくいろんな可能性を実際に試してみて、もし何かがうまくいくようであれば、それをひとつのモデル=たたき台として、より発展させていけばいい。僕はそう考えます。時間はある程度かかるかもしれませんが、それがいちばん正しい、筋の通ったやり方ではないかと思います。そういう場所がいろんなところに、自然発生的に生まれていけばいいなと思うのです。
 最悪のケースは、文科省みたいなところが上からひとつの制度として、そういうものを現場に押しつけることです。僕らはここで「個の回復」を問題としているわけですから、それを国家が制度的に解決しようとしたりすれば、まさに本末転倒というか、一種の笑劇(ファルス)になりかねません。
 
 僕個人の話をしますが、今から振り返って考えてみると、学校に通っていた頃の僕にとってのいちばん大きな救いは、そこで何人かの親しい友人を作れたことと、たくさんの本を読んだことだったと思います。
 本について言えば僕は、なにしろ実にいろんな種類の書物を、燃えさかる窯にスコップで放り込むみたいに、片端から貪(むさぼ)り読んでいきました。それらの書物を一冊一冊味わい、消化していくだけで日々忙しく(消化しきれないことも多かったですが)、それ以外のものごとについて考えを巡らせているような余裕もほとんどないような状態でした。僕にとってはそれがかえって良かったのかもしれないなと思うこともあります。自分のまわりの状況を見回し、そこにある不自然さや矛盾の欺瞞について真剣に考え、納得いかないことを正面から追及していったとしたら、あるいは袋小路みたいなところに追い込まれ、きつい思いをしていたかもしれません。
 それとともに、いろんな種類の本を読み漁ったことによって、視野がある程度ナチュラルに「相対化」されていったことも、十代の僕にとって大きな意味あいを持っていたと思います。本の中に描かれた様々な感情をほとんど自分のものとして体験し、イマジネーションの中で時間や空間を自由に行き来し、様々な言葉を自分の身体に通過させたことによって、僕の視点は多かれ少なかれ複合的になっていったということです。つまり今自分が立っている地点から世界を眺めるというだけではなく、少し離れたよその地点から、世界を眺めている自分自身の姿をも、それなりに客観的に眺めることができるようになったわけです。
 ものごとを自分の観点からばかり眺めていると、どうしても世界がぐつぐつと煮詰まってきます。身体がこわばり、フットワークが重くなり、うまく身動きがとれなくなってきます。でもいくつかの視点から自分の立ち位置を眺めることができるようになると、言い換えれば、自分という存在を何か別の体系に託せるようになると、世界はより立体性と柔軟性を帯びてきます。これは人がこの世界を生きていく上で、とても大事な意味を持つ姿勢であるはずだと、僕は考えています。読書を通じてそれを学びとれたことは、僕にとって大きな収穫でした。
 もし本というものがなかったら、もしそれほどたくさんの本を読まなかったなら、僕の人生はおそらく今あるものよりもっと寒々しく、ぎすぎすしたものになっていたはずです。つまり僕にとっては読書という行為が、そのままひとつの学校だったのです。lそれは僕のために建てられ、運営されているカスタムメイドの学校であり、僕はそこで多くの大切なことを身をもって学んでいきました。そこにはしちめんどくさい規則もなく、数字による評価もなく、激しい順位争いもありませんでした。もちろんいじめみたいなものもありません。僕は大きな「制度」をうまく確保することができたわけです。
 僕がイメージしている「個の回復スペース」というのは、まさにそれに近いものです。何も読書だけに限りません。現実の学校制度にうまく馴染めない子供たちであっても、教室の勉強にそれほど興味が持てない子供たちであっても、もしそのようなカスタムメイドの「個の回復スペース」を手に入れることができたなら、そしてそこで自分に向いたもの、自分の背丈に合ったものを見つけ、その可能性を自分のペースで伸ばしていくことができたなら、うまく自然に「制度の壁」を克服していけるのではないかと思います。しかしそのためには、そのような心のあり方=「個としての生き方」を理解し、評価する共同体の、あるいは家庭の後押しが必要になってきます。
 うちの両親はどちらも国語の先生だったから(母親は結婚したときに仕事をやめましたが)、僕が本を読むことについては、終始ほとんど一言も文句を言いませんでした。僕の学業成績に対して少なからず不満は持っていても、「本なんか読まないで試験勉強をしなさい」とは言われなかった。あるいは少しは言われたかもしれないけど、記憶には残っていません。まあその程度にしか言われなかったのでしょう。それはやはり僕が両親に対して、感謝しなくてはならないことのひとつであるように思います。
 
 もう一度繰り返しますが、僕は学校という「制度」があまり好きになれませんでした。何人かの優れた教師に巡り合うことができて、いくつかの大事なことは学べましたが、それを相殺して余りあるくらい、ほとんどの授業や講義は退屈でした。学校生活を終えた時点で、「人生でもうこれ以上の退屈さは必要ないんじゃないか」と思えるくらい退屈でした。でもまあ、いくらそう思ったところで、僕らの人生において、退屈さは次から次へと、容赦なく空から舞い降り、地から沸いて出てくるわけですが。
 でもまあ、学校が好きでしょうがなかった、学校に行けなくなってとても淋しいというような人は、あまり小説家にならないのかもしれません。というのは、小説家というのは、頭の中で自分だけの世界をどんどんこしらえていく人間だからです。僕なんかも授業中は、授業なんかろくに聞かないで、ありとあらゆる空想に耽っていたような気がします。もし僕が今現在子供だったら、学校にうまく同化できず、登校拒否児童になっていたかもしれません。僕の少年時代には幸か不幸か、登校拒否みたいなことがまだトレンドにはなっていなかったので、「学校にいかない」なんていう選択肢そのものがなかなか頭に浮かばなかったみたいです。
 どんな時代にあっても、どんな世の中であっても、想像力というものは大事な意味を持ちます。
 想像力の対極にあるもののひとつが「効率」です。数万人に及ぶ福島の人々を故郷の地から追い立てたのも、元を正せばその「効率」です。「原子力発電は効率の良いエネルギーであり、故に善である」という発想が、その発想から結果的にでっちあげられた「安全神話」という虚構が、このような悲劇的な状況を、回復のきかない惨事を、この国にもたらしたのです。それはまさに我々の想像力の敗北であった、と言っていいかもしれません。今からでも遅くはありません。我々はそのような「効率」という、短絡した危険な価値観に対抗できる、自由な思考と発想の軸を、個人の中に打ち立てなくてはなりません。そしてその軸を、共同体=コミュニティーへと伸ばしていかなくてはなりません。
 とはいっても、僕が学校教育に望むのは「子供たちの想像力を豊かにしよう」というようなことではありません。そこまでは望みません。子供たちの想像力を豊かにするのは、なんといっても子供たち自身だからです。先生でもないし、教育設備でもありません。ましてや国や自治体の教育方針なんかではない。子供たちみんながみんな、豊かな想像力を持ち合わせているわけではありません。駆けっこの得意な子供がいて、その一方で駆けっこのあまり得意ではない子供がいるのと同じことです。想像力の豊かな子供たちがいて、その一方で想像力のあまり豊かとは言えない――でもおそらく他の方面に優れた才能を発揮する――子供たちがいます。当然のことです。それが社会です。「子供たちの想像力を豊かにしよう」なんていうのがひとつの決まった「目標」になると、それはそれでまたまた変なことになってしまいそうです。
 僕が学校に望むのは、「想像力を持っている子供たちの想像力を圧殺してくれるな」という、ただそれだけです。それで十分です。ひとつひとつの個性に生き残れる場所を与えてもらいたい。そうすれば学校はもっと充実した自由な場所になっていくはずです。そして同時に、それと並行して、社会そのものも、もっと充実した自由な場所になっていくはずです。
 僕は一人の小説家としてそう考えます。まあ、僕が考えて、それでどうなるというものでもないのでしょうが。(第8回は了)

at 20:17, 砂田好正, 被災地復興

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小説『東京・被災地街道』砂田好正著

著者の自宅の近くを走る【都バス「白61」】にまつわる小説。東日本大震災に関わる著者が、この【都バス「白61」】の走る沿道を「東京・被災地街道」と名付け、自らの人生に準えて描いている。東京で生まれ育った著者の人生を振り返った私小説でもあるが、東日本大震災の復興に関わることがなければ、この小説は生まれることはなかった。著者の初の書下ろし小説である。
http://hisaichi.wiselink.biz/
 

at 20:12, 砂田好正, 被災地復興

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「女性が経営にかかわる機会を増やすために」読後感想

『企業診断』9月号の高橋美紀さんがお書きになった論文『「202030―女性が経営にかかわる機会を増やすために』を読みました。全文を通して、女性の、組織においての地位がいまだに低いこと、女性が一生を通じて就労・昇進することの困難性、その一方で、女性が就労・昇進することが少子高齢化社会の日本において必要不可欠なこと、女性の就労・昇進に欠かせない組織制度・管理の考え方、そのための女性の心構え、などが書かれています。そして現在の行政においてもそのことが政策課題となっています。
 僕がフェースブックだけで存じ上げている著者は、共稼ぎの、お子さんも育てている主婦です。それだけに、統計を扱っているにも関わらず、どこかリアリティを感じることができました。そして女性の地位向上、より高い社会参加に、一人の女性としての意欲が感じられました。
202030」というのは2020年までに女性の管理職を30%にするとのことです。この政策課題も行政が主導的に組織に働きかけ、実現していくしか方法はないのが現状なのでしょう。そのことはかなり日本的ではないか、と僕は思います。ただ、そこに期待しつつ、それぞれの組織の文化が、女性を重んじるように進展することを期待したいと思います。読後感の拙文を書かせていただきました。

at 13:00, 砂田好正, 人間中心の職場作り

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気仙沼の復興についての記事

『中小企業振興』新聞2015年5月1日(金)発行から引用
独立行政法人中小企業基盤整備機構
 
【復興へさらなる前進】■東日本大震災から4年(最終回・鼎談)
出席者・菅原昭彦氏(気仙沼商工会議所会頭)
    ・守屋高弘氏(中小機構東北本部長)
    ・渡辺進也氏(中小機構震災復興支援アドバイザー)
「気仙沼、本復旧の入り口段階に」
「商工会議所と中小機構の連携が奏功」
「小規模事業者支援の見本に」
[前文]
 国内屈指の魚のまち、宮城県気仙沼市。東日本大震災の津波により、漁業や水産加工、製氷業などの産業が壊滅的な打撃を受けた。復興に当たっては、中小機構と地元の支援機関、とくに気仙沼商工会議所との連携が効果的な支援を行う好例となった。震災から4年を経たのを機に、気仙沼商工会議所の菅原昭彦会頭、中小機構の守屋高弘東北本部長、渡辺進也震災復興支援アドバイザーの3者に、これまでの復興の歩みや、今後の気仙沼のまちづくりの方向性などについて語ってもらった。
[本文]
「8割の事業者が被災」
〈菅原〉 まず気仙沼市の被災状況から説明しますと、漁船を含め、冷凍冷蔵庫、水産加工場、製氷工場など、水産関連の生産設備の被災が多く、当商工会議所会員の約8割が何らかの被災をしました。七十七銀行が産業連関表で試算したところ、被災直後の5月の市のGDP(域内総生産)は、震災前の 半分程度まで落ち込んだということです。もちろん、産業だけでなく住宅も被災し、4年経ったいまでも、市民の8人に1人に当たる9000が仮設住宅住まいです。私も市の復興計画づくりに震災の年の6月から参画していますが、最優先すべきは住まいの再建と早急な産業の復旧・復興であると考え、それに沿って4年間やってきたところです。
 現在はどうかというと、中小機構が建設した仮設商店、仮設工場で営業を再開したものの、本格的に事業を行う本設への移行はできていない事業者も多く、仮復旧と本復旧の入り口の段階だと思っています。漁業の水揚げは昨年1年間で震災前に比べ75%程度まで回復していますが、今後100%までいくのは非常に難しいと思います。市役所から毎月発表される工業用水や産業用電力の使用量が震災前の6割程度となっていることから、設備の稼働は平均して6割程度まで回復していると推察されます。
 まだ復旧していない産業を早く復旧していくことがわれわれの使命ですが、水産関係は2つの大きな課題を抱えています。1つは販路の喪失で、事業者は震災後の長い休業の間に取引先がなくなってしまい、それを復活させるのは容易ではありません。
 
〈守屋〉 もう1つの課題は何ですか。
 
〈菅原〉 人手不足です。作れるようになったが販路が見つからないという話がある一方で、販路はあるが、人手がなくて作れないという話もあります。これは深刻で、気仙沼の有効求人倍率は平均2倍超、水産加工では3倍を超えますやっと生産再開のめどがついても、人手が足りずに作れないという事態が起きています。建設業も2.2倍です。逆に、事務職は0.4倍〜0.5倍です。製造業に携わっている人も、Uターンで帰ってきた人たちも多くが事務職を好むのですが、求人はどちらかというと労働集約的職種が多いというミスマッチが起きています。
 また、商業関係では、仮設施設で事業をしている人が、全員、本設で事業を再開しているかというと、本設で施設や設備を復旧するためには借金をして再投資しなければならないことも多いですから、高齢の経営者の場合、これから借金をして何十年もかけて返済していくことは難しいのが現状です。実際、仮設の「気仙沼復興商店街 南町紫市場」の場合、40店舗以上が本設に移転する計画だったのが、ふたを開けてみたら30店舗以下でした。また、ある仮設商店街では10カ所の仮設店舗を5年間の期限で設けましたが、3年経って入居者とミーティングしたら、「5年以上いさせてほしい」というのが皆さんの意見でした。「仮設施設は早期の事業再開のため、応急措置として5年という期間を設けた。皆さんは本設で再開する気持ちはありますか」とお聞きしたのですが、「私は仮設で事業を終わりたい」という声も出ました。20代、30代の人なら本設で再開を望むのでしょうが、50代、60代となると悩まれるのでしょうね。とくに仮設の事業をしている人は個人事業者が多いので、後継者がいない人もいます。
 ただ、製造業はこの機会に地元に戻って後を継ぐという事例も出ており、まだ活力があります。それでも、製造業も今の環境変化を考えて、省力化、高度化をし、人手が足りないなら機械化する、商品が売れないならより高付加価値の商品を作るといったことをしなければ生き残れないと思います。現時点では復興関連の建設業などの人たちが入ってきてお金を使っていますので、何とか地域経済は成り立っていますが、その間に水産業をはじめとする産業を、きちんと復興させることが大きなテーマです。
 
「全市町村を訪問」
〈守屋〉 中小機構の復興支援では、大きな柱が仮設施設の整備と震災復興支援アドバイザーの派遣です。当初はこの制度を知っていただくことと、被災地で実際にどんなニーズがあるかを探るため、太平洋沿岸の被災地域は全部の市町村を中小機構の職員が手分けして回りました。
一つの大きな事業である仮設施設の整備については、中小企業庁や中小機構本部が震災直後の4月初めごろから被災地の方々と話をしながら進めたのですが、当時は行方不明者の捜索も続き、避難所暮らしの方々も多い中で、事業再開の話をすることは被災者の気持ちを逆なでするのではないかと私は心配していました。しかし、実際に被災地に入り、被災した事業者の方々と話をすると、仮設施設事業に強い関心を持っていただき、むしろ「もっと早く進めてほしい」という声をいただき、早めに話し合いを進めてよかったと思います。結果的に、中小機構は被災地で600カ所以上の仮設施設を整備しましたが、そのうち1割以上の65の事業が気仙沼市でした。「仮設がなければ事業をやめていた」という声も数多く聞いており、お役に立ててよかったと思っています。ただ、会頭のお話にも出てきたように、今後、本設に行く決断がなかなかつかない方も多くいらっしゃるようです。この点は今後どうなるかと私も心配しているところです。
復興支援アドバイザーの派遣については、気仙沼の場合、商工会議所から平成24年2月に派遣の要請をいただき、グループ補助金(中小企業等グループ施設等復旧整備事業)の申請にあたり、グループごとの復興計画をまとめるお手伝いをさせていただきました。このときは中小機構のアドバイザーや職員も泊まりがけで何日間もかかって具体的な支援をさせていただいたと聞いています。
グループ補助金の活用を希望される事業者が400以上あり、多いときは一日に数人の復興支援アドバイザーが気仙沼に入りましたが、特筆すべきは、すべての事業者の方の相談に乗ることはできないので、間に商工会議所に入っていただき、アドバイザーが商工会議所の職員の方が事業者に直接支援する形をとったことです。これで効率的な支援ができたのではないかと思います。
これを契機として、個々の企業からまた相談をいただけるようになり、会議所や商工会で定期的に相談する場をつくっていただいたこともあって、中小機構による気仙沼での4年間のアドバイザー派遣件数は1000件を超えました。これがお役に立ったのであれば、これに勝る私どもの幸せはないと思っています。    
 
〈渡辺〉 いちばん印象的だったのは、グループ補助金に関する事業計画策定のお手伝いでした。450社以上の企業を取りまとめる緊急のビッグプロジェクトでしたが、「1社でも多くの企業を復旧させる」という会頭の強いリーダーシップにより推進されました。事業者にはていねいな説明の機会を設け、同時に商工会議所の職員と中小機構のアドバイザーによる支援体制を構築し、国や県との調整のもと、優先順位をつけて取り組んだことが結果として、多くの事業者の採択につながりました。
 
「職員がノウハウを共有」
〈菅原〉 復興補助金はみんな平等、公平が基本でしたが、気仙沼の産業構造を考慮し、早く復旧させないと地域はだめになる、その優先順位をつけることに皆さんが理解を示してくれたことが大きかったですね。
 
〈渡辺〉 会頭自らが多くの事業者や会議所職員の方々にビジョンを語り、共通の目的のもとで、高いモチベーションで取り組めたことが成果の要因だったと思います。支援体制についても、職員の方々が、一人何社と割当てて説明して回り、そうした中で課題解決を要する案件については、中小機構のアドバイザーが後方支援するという新しい形の支援ができたと思います。
 
〈菅原〉 その時の会議所職員の活躍はすごかったと思います。復興計画を全部一緒に出さなければならないので、例えばホワイトボードに日付を書き、どういうスケジュールで、いつまでにどういう役割分担で進めるかを明確にするようにしていました。課や担当を乗り越えてチームで仕事を進め、ノウハウを共有していく仕組みができていきました。その過程で、当会議所職員の事業計画策定や補助金申請方法などの経営指導能力が数段上がりました。
 
〈渡辺〉 私たちにとっても、共通の目的、同じ目線で支援する側の仲間として関われたことで、コミュニケーション密度が高い、新しい支援スタイルになりました。
 
〈菅原〉 そうした支援を続ける中で、会議所の職員は自分の役割が分かってきました。それまでは税務申告書類作成の手伝いなど事業者の背後にいることが多かったのですが、今回は職員が前面に出るという非常に貴重な経験になったと思います。
 
〈守屋〉 昨年に小規模企業振興基本法という新しい法律ができ、小規模事業者を広く支援することになりましたが、中小機構の組織力にも限界があり、個々の企業への直接支援はなかなか難しい。そこで、中小機構は地域の支援機関のお手伝いをし、支援機関を通じて多くの企業を支援することに力を入れる方針となりました。その先駆けとなったのが、今回の気仙沼商工会議所との連携だったと思います。大変厳しい時期でしたが、会議所の方々を中心に地元がまとまってくれたおかげだと思っています。これは見本として、今後の参考にさせていただきたい。
 
「将来見据え地方創生へ」
「地域産業活性化で本格復興」
「人材育成が鍵」
〈菅原〉 震災から4年経ち、今後の方向として人材育成が重要になってきたと感じています。マーケティングやマネジメントなどの力を備えた人材を育てていくほか、会議所での経営相談、経営計画策定などを通じて、本格復興に当たり自分はどうするのか、また地方創生政策の支援メニューをどう使っていくかを個々の事業者に考えてもらわなくてはいけない。継続的に相談することで自らこうしたことも考えるようになり、地域の経営者や社員の人材育成につながっていきます。
 
〈渡辺〉 確かに、事業者さんにはそうしたニーズがたくさんあるのですが、現場からは、さらに「どんな支援策や補助金が自分に当てはまるのか分からない」という声が多いのです。フェース・ツー・フェースによる個人レベル・直接の情報発信が強く求められていると感じています。
 
〈菅原〉 中には、「これは自分に当てはまらない」とあきらめている人もいますからね。
 
〈守屋〉 先ほど会頭が触れられた地方創生のために何が必要かというと、地域産業が元気になることが重要です。地方に行くと、ほとんどが中小企業で、そこを魅力ある雇用の場にしないと、若い人は出て行ってしまう。そのときに大切なのが、経営人材がどれだけ育成されているかです。経営計画の話が出ましたが、計画は作っただけではだめで、これを回していく経営人材・経営体質が必要です。そこまでやらないと、なかなか実力のある企業にはならない。中小機構では、今回の復興だけでなく、例えば新商品開発でも企業が継続的に開発できる体質となるような支援を大切にしています。この点でもお手伝いできることがあればと思います。
 
〈菅原〉 気仙沼全体の人口は減っていますが、震災後はIターン、Uターンが増え、2544歳の流入人口は増えています。震災後にボランティアに来て気仙沼の魅力にはまり、または地元の人とつながりができ、例えば東京から移住する人も結構います。問題は、彼らは「年収が半分になっても頑張る」と言っているのですが、そうした状態が長い間続くとは思えない。こうした人たちが気仙沼でビジネスを続けられるようになることが大事です。われわれは「フローをストックにしよう」と、この復興期に起きていることを一過性で終わらせるのではなく、それを地域の力にしていく。さらにはIターンやUターンの人たちが一過性ではなく、地域に定住できるようにしたい。会議所としてもそうした人たちへの支援策が必要になりますが、「目の前の課題を処理する」ことから、「将来を見据えてどのように展開するか」についてのアドバイスが重要になってくると思います。
 
〈守屋〉 Iターン希望者がそれだけいて、定住していただくことは大事ですが、これを増やしていこうとするときに求められるのが、気仙沼のブランド力だと思います。被災者は本当に大変だったと思いますが、気仙沼の知名度は全国的に上がりました。誤解のないようにしていただきたいのですが、これをチャンスととらえ、ブランド力を向上させる情報発信が重要だと思います。
 
〈菅原〉 そうですね。ブランド化に向けて、気仙沼にはたくさんの種があるのですが、散らばっており、絞り切れていないため、一過性で終わらないかと危惧しています。フローをストックにするためには、きちんとした事業構想を立て、ビジネスにしないとだめです。例えば、気仙沼では漁業者だった人が体験学習などで観光を手がけている例もありますが、まだ商売になっていない。きちんと原価計算をして、単価を10倍にしても観光客が集まるコンテンツにしていく感覚を持つことが絶対に必要です。そういうときは、渡辺アドバイザーの出番になると思います。
 
〈渡辺〉 菅原会頭のおっしゃるとおり、事業化の感覚が必要だと思います。事業化に当たっては、利益計画とビジネスモデルの組み方などを考えた事業化が必要です。事業計画の精度を高めることで、成功可能性は大いに高まります。具体的には、経営戦略に基づき、商品・価格戦略と独自のチャネル戦略により、十分な客単価を設計します。またあ、プロモーション戦略により、必要な客数確保を目指します。計画段階から独自のポジションを築くことが事業成功のポイントとなります。また、数値目標を設定し、進捗率を管理していく仕組みづくりも重要です。
 
〈菅原〉 中小機構には事業者からの経営相談を受けていただいていますが、被災者だけでなく、新しい事業を興す人に、事業計画、利益計画を教えていただくことが大事だと思っています。中小機構の力を借りて自分自身の経営力を身に着け、ビジネスとして続けられるような流れができるといいですね。復旧・復興といいますが、復旧はハードの問題で、震災前の設備を元に戻すことが基本ですが、復興とは本来、震災前より良くなることです。一人一人が震災前よりも良くなりたいという気持ちに後押しされるのが復興だと思います。気仙沼に戻る人、入ってくる人がもっと増えたとき、震災前よりも良くなった状態になっていると、本当の意味での復興支援ができたといえるのではないでしょうか。ハード面の支援も必要ですが、新しいノウハウや考え方を含めたソフト面の支援があって初めて創造的な復興ができるのではないかと考えます。
 
〈渡辺〉 最近、気仙沼商工会議所職員の方々からの相談も増えています。職員の方々もさまざまな局面での疑問や悩みを抱えておられますが、中小機構のアドバイザーと一緒に考えていくという非常に良い流れができていると感じています。
 
〈菅原〉 事業者と会議所職員が正面から向き合うようになりました。そうやって情報交換していくと困っていることが分かるし、中小機構側もニーズを伝えやすくなっていきます。会議所はそういう役割を果たしていく存在だと思いますね。
 
「3つの観光振興策」
〈守屋〉 三陸沖は世界の3大漁場の一つですが、会頭は地域活性化伝道師もされているとお聞きしています。まちづくりをしていくにも、観光や地域資源の素材が多い中で、どのような考えを持っておられますか。
 
〈菅原〉 3つの作戦を立てています。一つは、観光のコンテンツ強化です。震災前は一部のホテル・旅館や飲食店などの、いわゆる観光事業に関わる人が一生懸命やっていました。しかし、震災をきっかけとして、先ほどあげたように、漁業関係の人やまちづくりに携わる人が観光に興味を持ちはじめ、プレーヤーが増えてきました。これはチャンスだと思っています。市民全員が観光産業のプレーヤーになり得る。街を挙げた観光産業の活性化を目指したいですね。これまでは観光スポットが各所に点在しており、素材も多いため、コンテンツについても絞り切れていませんでした。これでは弱いため、オンリーワンの素材に絞ってコンテンツを強化していくことが重要だと思います。
 二つ目は、食のブランド化です。食材が豊富で、日本一、世界一のものがいくつもあります。例えば、フカヒレやカツオ、サンマなどで、とくに生のメカジキは国内シェア7割です。これらの素材も絞り切れていなかったのですが、当面はメカジキに絞り、気仙沼でしか味わえない料理を発信しようとしています。試行錯誤として気仙沼の飲食店6店舗を選び、しゃぶしゃぶ、すきやき、焼く、煮るなど、独自のメカジキ料理を提供してもらっています。観光に来た方が、メカジキだけでなく、ほかにもいろいろあると分かり、満足して帰っていただきたいと考えています。
 三つめは、情報発信力の強化で、組織的にきちんとしたプロモーションをやっていきます。今年度からの具体策を練っていますが、会議所も予算をつけています。プロモーションには外に向けての発信と、気仙沼に来られた観光客への情報提供があります。観光客向けには、スマートフォン用アプリ「気仙沼観光ナビ」をつくり、市内にいらっしゃった人は全店舗の情報が検索できるようになります。これは近く実現します。私自身も国内外の観光地の先進事例を視察し、ハードに頼る観光ではなく、滞在型などソフトをうまくつくっているところを参考にしたいと思います。
 
〈渡辺〉 ブランドについては、認知度を評価基準にする場合がありますが、ブランド価値を高めるためには、ブランド連想が重要視されるべきであると私は思います。気仙沼の場合でも、どのような体験ができるかを連想できることが必要です。会頭のお話にもあった顧客ニーズに合致するコンテンツ・体験価値を提供することでブランド力が高まります。また、情報発信の相乗効果が発揮され、より浸透させやすくなります。私自身も気仙沼は、とても魅力のある街だと思っています。モノを前面に出すのではなく、何を達成できるか? という顧客にとっての体験価値を検討し、ブランド連想を設計してブランドづくりを推進されることが望ましいと思います。
 
〈守屋〉 観光の付加価値をつけるためには、体験や物語が重要になってきます。観光のモノ自体は大差があるわけではないからです。
 
〈菅原〉 気仙沼と聞いて、どういう観光地かとイメージできるようにしなければならないということですね。例えば、京都=お寺・神社など歴史を感じる、軽井沢=別荘地みたいなことですね。気仙沼といえば、水産物や港というイメージはあるのですが、実際にそこで何を体験でき、どんな幸せが待っているかというイメージを持ってもらえることが大事ですね。
 
〈守屋〉 地元では当たり前のことでも、外の人からみれば珍しいということもあるので、積極的に外の人の意見を聞いてみることも必要でしょうね。
 
〈菅原〉 震災復興でボランティアに来られた方々のアイデアも入ってきています。われわれはメカジキの刺身を当たり前に食べていましたが、例えば仙台市では刺身では食べないと聞き、びっくりしました。それを教えてくれたのがボランティアの方です。そこで地元の人で知恵を出し合って考えたところ、「メカジキのブランド化」が出てきました。メカジキの次は、圧倒的に日本一の水揚げを誇るカツオです。ただ、同じブランド化でも、ブランド化が目的ではなく、ブランドをツールとして使うことが必要だと思っています。体験的価値、情緒的価値のようなものをどう伝えられるかが課題です。
 
〈渡辺〉 気仙沼では、お話に出たように、メカジキやマグロ、カツオ、サンマ、フカヒレなど、独自の地域資源があります。気仙沼のブランド化を推進するためには、統一的なコンセプトに基づき、食べる、見る、遊ぶなどの体験型の付加価値をメニュー化して提供していくことを期待しています。
 
「産業地のあり方検討」
〈菅原〉 商業地のまちづくりでは、いま市役所にも商圏などの分析をお願いしており、それを見据えながら商業地のあり方の検討を始めています。ただ、これから市内3カ所に商業地をつくる計画がありますが、市役所や会議所などの上からのまちづくりではだめで、各エリアで話し合い、それぞれに考えを出してもらい、それに対してわれわれが調整の支援をしていくということで進めています。具体的には、会議所への義捐金などを使わせていただき、各エリアの商業まちづくりの計画策定に補助金を出し、自分のエリアをどうしたいのかを考えてもらっています。同時に、海沿いの観光エリアをどうつくっていくかということも検討しています。
 
〈守屋〉 津波被害にあった海沿いには新しい建物などが立ちはじめていますが、景観上の方針は出ていますか。
 
〈菅原〉 景観については、すでにイメージ的な話はしていますが、今年度から専門家を入れて本格的な議論をはじめ、ガイドラインを策定する予定です。観光地としての顔づくりの大きなテーマとなります。
 
〈守屋〉 今後もわれわれは全面的に支援していきますので、気仙沼の復興に向けて、会頭、そして商工会議所の職員の方々のさらなるご活躍を期待しています。本日はお忙しい中、お時間をいただき、ありがとうございました。
                                     (了)

at 10:35, 砂田好正, 被災地復興

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「来てもらう」という支援

 3月11日が近付いてきた。いうまでもなく、東日本大震災の4年目の日である。偶然かもしれないが、いま『できることをしよう――ぼくらが震災後に考えたこと』(糸井重里著(ほぼ日刊イトイ新聞)新潮文庫)を読んでいる。「できることをしよう」と思っている僕にとって、その書名は十分に魅力的であった。まだ全部を読んでいないのだが、大変、勉強になっているし、対談の内容にも感動している。
 さて、東京で生活し、震災を直接体験していない「僕に何ができるのか」と考えていたら、ある支援者が「買う、行く、働く」をすれば良いと語っているのに出合った。そうか、「買う、行く」は、僕にもできるな、と思った。そのとき、僕にもう一つのアイディアが生まれた。この三つに加えて、「(東京に)招く(来てもらう)」ということも、僕にもできるのではないか、と。それも東京で生活する僕の支援のあり方の一つではないか、そう思った。「買う、行く、働く、招く」のうち、個人的にできる範囲のことをしようと思うのである。
 微力ではあるが、そんなことを考える大震災4年目である。

at 15:56, 砂田好正, 被災地復興

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被災地の方々の仕事

 1122日(土)、23日(日)に、NPO法人MOVE主催の第3回福島応援学習バスツアーに参加した。郡山、国見町、二本松などで、農業に従事している方、お役所で地域に貢献している方、小売店で商品を販売されている方など、我々を暖かく迎え、地域の実情を説明してくれた。その全ての人に感謝したい。そして、「学習」ツアーと言う名称にふさわしい旅であった。
 突然だが、僕の66年間の人生において、一番つらかったのは、20代のときに3度経験した失業時代ではないかと思う。当時の家計はそう厳しくはなく、失業し、稼ぎがなくても経済的にすぐに苦境に陥るわけではなかった。しかし、社会から取り残されているという孤独感、存在感の無さからか、僕にはとても辛かった。
 これまでの僕の人生では、多くの辛いことがあった。彼女にふられたこともある。モラルハラスメントを受けたこともある。両親の死も乗り越えなくてはいけなかった。日常的には、朝が来ないでくれと思ったことだって少なからずある。辛いことは多々あったのである。でも一番辛かったのは、失業していること、仕事を失ったことのように、いまの僕は思う。僕だけの特殊な思いだろうか。
 それで、今回のツアーにおいて訪れて思ったのは、誤解を恐れずに言えば、特に被災から3年半が経過したいま、被災者の方々が一番辛いのは、それぞれの仕事を失うことではないか、ということである。被災して、家族や知人を失ったことも、自宅の家屋を失ったことも、仮設住宅で生活することも、風評被害に合うことも、辛いことだろう。そのうえで言うのだが、しかし、被災者がそれぞれの仕事を失うことがあれば、より大きな辛さを味わうのではないか、そのように僕には思えた。
 とすれば、被災者の方々が、それぞれの仕事に従事でき、その仕事によって地域での生活が成立することを願わずにはいられない。そのための支援が行政においても必要だし、我々被災者ではない人間にとっても肝に銘じる必要があると思う。

at 11:50, 砂田好正, 被災地復興

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